「社会」は大きくなりすぎている

今日リディラバ社長安部さんも出演するグッどラックでカジノ法案のニュースを見て色々思うことがあった。

ニュースとしては横浜でカジノの建設を進めていく方針を打ち出しそれに対して住民の反応を取り上げるという構成。

カジノ法案はゼミのディベートの題材であったのである程度知識はある状態で聞いていたが、IR法案可決によるメリットとしては
・経済効果、税収
・むしろギャンブルが減る(合法化されて違法のものをやる必要がなくなるというロジック)
・雇用確保

一方でデメリットは
・治安の悪化
・依存症の増加

自分はIR法案に対して賛成、反対という明確な立場はない。
それよりここで気になったことがある。それは

社会って複雑すぎる。


単純に考えてほしい。今カジノを日本に誘致したいのって人口が減少していたり税収の不足を補うため。

ここで考えてほしいのは人間という生き物は本来、飯を食べ、運動して休息を取る。これが基本的な生息条件であって、それさえあれば生きていけるのにそれすらままならない人が多く存在するのだ。そしてそれを解決するために何兆円も使ってとんでもなくでっかいカジノという箱を作ってわざわざ治安が悪くなるリスクを抱えて外国人をおもてなししなければいけない。

別に日本に来る海外の人を否定する気などさらさらない。しかし日本に住む私たちが幸せに、まともに生きていくためにギャンブルを誘致するってちょっと矛盾していると思うのだ

極端な例だがもしこれがムラ社会であればどうだろう。もちろん昔であれば食糧の争奪戦も起きていただろうが、今はフードロスが問題になるほど食糧が余剰している時代。お隣さんにおすそわけするというほんの少しのやさしさがあれば貧困のこどもたちなど日本に生まれるはずがない。
でも日本にはごはんが食べれないホームレスがたくさんいて、子供を学校に行かせることのできない家庭がたくさんいる。

この魔訶不思議な矛盾を生み出す根本は「社会」という仕組みにあると私は思う。というよりリディラバで社会問題を知ることでそう気づいた。
そもそも「社会」という概念は人間だけが作り出せるものでこれのおかげで人間は様々な発展を遂げてきた。

例えばバナナを食べたいと思ったときサルなど人間以外の動物は自分や家族が今存在するバナナを収穫をして食べることしかできない。しかし人間は「社会」という仕組みを使ってバナナ農園を作り、人々にバナナを届けるというシステムを構築することができる。また、Aさんは野菜を、Bさんは米を栽培するといったような分担をして生活を支えることもできるのだ。これは他の動物にはできない。

そしてこの社会という概念を使えることは人間の強みなのだが、いつからかそれは人間を脅かす概念にもなっている。これが今言われている数々の社会問題である。

今の人間という生き物は既得権益が得をするようにあえて社会構造は複雑になり、ブラックボックスにしている。そうすることで持つもの、持たざる者という2極化を生み出すのだ。

それくらいしなければ、国を救うためにギャンブルを誘致という意味不明な解決策は出てこないと思う。複雑になってしまっているから、それを解きほぐすために一見矛盾しているような解決策がでてきてしまうし、それは結局根本的な解決につながっていないのも事実。人間は住めて、飯を食えて、服を着れれば最悪なんとかなるのだから本来はもっとやり方があるのに。

昔は自分たちで狩りをして獲物を捕まえ、服は自分で布や藁を纏って寒さを凌いだりしながらムラの中で生きていた動物が、今はパソコンを売っていろんなサービスを生み出している。それはそれでいい。その一方で持たざるものは社会からはぶられていく。

このように人は豊かになる中で簡単かつ大事な「生きていく」ということにを難しく考えてしまうような社会を作り上げできてしまったのだ。それが今の「社会」だ。

SDGsだって小難しくいってるけど昔であれば当たり前のように行動してたことだと思う。

では、僕は今の世界を作り出している「資本主義」とか「社会」を否定したいのか?そういうわけではない。自分は資本主義の上で生活している身だし、社会というシステムは人間の貴重な武器だと思っている。しかもそれを否定したところで何を変えられるわけじゃない。だからそのシステムの上で何をできるのかを考えるべきなのだ。

僕は人生のどんな時でも「批評家」にはなりたくない。もちろん何かを批判することはあるけれども、それだけではなくほんの少しでも「社会」というものを前に進めていけるような存在でありたい。別に強い使命感はないけどどうせ生きているのなら悪いことではなく善いことをして生きていたなと思う。

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