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カニのパスタをどこまで深追いするべきか

カニのパスタが好きだ。
ここで言うカニのパスタとは、イタリアンレストランのメニューでよく見かける、小ぶりのカニが丸ごと乗ったクリームパスタのことである。

味云々というより、見た目を好んでいるという方が近しい。
カニが一杯、パスタの上にどかりと腰を据えている姿は何とも景気が良い。眺めるだけで幸福値が上がる気さえする。色が赤というのも、それに拍車をかけるようではないか。

その他エビ類も好物である。もちろん丸ごとだと尚良い。寿司屋に寄っては油でカラッと上げたお頭を添えてくれるところもあり、出くわすと嬉しくなる。塩味の効いたパリパリの頭を噛み砕くと、口一杯に香ばしいエビの風味が広がる。ねっとり濃厚なエビの寿司と交互に食べれば無限に酒が進む。
悪しきインターネットに流布する「某黒光りする害虫と同じ成分」などと野卑を飛ばす者には「じゃあおめぇはゴキブリの身を食うのか」と毅然たる態度で臨む所存である。尚、常食している上で勧めてくるのであれば敗北を認めざるを得ない。

カニの話をしよう。

カニやエビの他にも「濃厚卵のカルボナーラ」やら「4種のチーズを使ったピザ」やら「マルゲリータ」やらも大変好物であり、それらが勢揃いした日には悩ましいことになるが、その中でもとりわけ目を引くのはカニである。前述の通り景気が良いからだ。「味」より「見栄え」である。パスタの上にカニが丸ごと乗ってる姿が見たいのである。
その反面、即決できない理由もあった。

食べづらいのである。

そもそもらカニが食べづらい。
かねてより「カニを食うと皆無言になる」といった事象が語り継がれているくらいだ。
鍋類なら未だしもパスタである。
しかもクリームパスタ。
手のベタつきは愚か、衣服さえ危険に晒すことは必定である。
そもそも食事という観点からすると、カニをパスタの上に設置するメリットは無い。
エビと違い丸ごとは食べられないので、カニの殻は除ける他無い。可食部以外を食事の上に置くなどあまりに非効率であり、正気の沙汰でない。

では何故カニを置くのか。

テンションが上がるからである。

それ以外に説明がつかない。

あくまで個人の妄言として多めに見て頂きたいが、テンションが上がる以外の価値は皆無だとすら思っている。
カニのパスタを頼むとその瞬間こそ高揚するものの、味はこれといって普通であることが多い。劇的にカニの味がするでもなし(店舗によるやもしれない)、不味くはないが目が覚めるほどの美味さということもなく「まぁこんなもんか」で終わることが多い。
見た目のインパクトが災いし、期待値を上回りづらいのだろう。

そういった経験則がオーダーを迷わせる。
特に初見の店では、無難に王道のピザやカルボナーラなどを頼む方が勝率は高い。カルボナーラが不味かったらその店の料理は何食っても駄目まであるというのは今さっき考えた何の根拠もない持論だが、寿司屋も玉子焼きで決まるというし、同じ卵料理だから感覚としては近しいだろう。
某害虫の話で憤慨したのと同じ口で何を言うのだといったところだが、こういう都合のいい人間である。

都合の良い人間なので、愚かにも過ちを繰り返すのだ。

ーーーーまぁ、どうせカニは出汁用で味はほぼ抜けてるだろうから、無理矢理食べることもないし。

ーーーー飾りだと割り切って麺だけ食べれば良いし。

などと言い訳を並べ立て、己にとって好ましい分岐へ思考を促してしまう。何故か?
カニを見たいからである。

さて。

いざ注文。
前菜のサラダを黙々と平らげ、水を啜りながら待機すること数分。カニのパスタのお出ましである。
そこには期待通りの光景が広がっていた。
一杯のカニが堂々と乗っている。赤くて景気が良い。これだけで元気が出る。

ここが最大瞬間風速だ。
あとは「まぁこんなもんか」と思いながら食べるのみである。

ところが、フォークとスプーンの他にもう一つ食器を渡された。
カニスプーンである。

カニスプーン。

名前のわりに形はフォークと似ているが、先端が細く尖り二股になっている。サイズ感を誤ったさすまたのような形状だ。
言わずと知れた、カニを食うためだけの動画である。
これを渡されるとは即ち、このカニは飾りでなく食べ物であり、こうなると話が変わってくる。

食事の場は「食べるとしてどこまで食うのか」の戦場へとシフトした。

幼少期の私もカニのパスタが好きだった。
その時は見た目云々より、カニを食いたいといった情熱が勝っていた。何せ高級食材のイメージが強い。
今にしてみれば、カニにもランクがありパスタに使用されるものは比較的安価であることを承知しているが、当時は知る由もない。手をパスタソースまみれにしながら、懸命に蟹の身をほじくったものだ。

そんな子供も、今ではすっかり良い大人である。
恥も外聞もなく手指を汚し蟹の身を追い求めるわけにはいかない。
どこに出しても恥ずかしい成人である自覚はあるが、世間体を気にするだけの常識には囚われている。

だがーー私の常識には、パスタの上のカニをどこまで深追いすべきかは記されていない。
中途半端に項目を埋めた、痒いところに手が届かぬ偏りだらけの不出来な辞書は、これまでの人生を適当に生きてきた故の戒めめいた産物である。
かといって、知識を補填すべくインターネットを頼り「カニ パスタ どこまで食える」などパスタを前に検索できるはずもない。私の過剰な自意識はそれを許さない。

探り探り、まずは胴体の部分をスプーンの先でつついてみると、甲羅がパカっと外れた。店側の配慮だろう。このパターンはありがたい。少なくとも甲羅の中身は食べて良いという作り手のサインに他ならないからだ。
難敵は足である。
一般的に、カニの可食部は足のイメージが強い。赤く茹で上がった足の関節を折り、ずるりと蟹肉を引き摺り出しかぶりつく。
だが、それはタラバ何某だとかの話だ。パスタの上の蟹の貧相な足は、到底肉が詰まっているようには見えない。

それでも物は試しだ。
ソースが絡まった蟹を指先で摘み、もう片方の手も添え、従来の可動区域に逆らった方向へ力を込める。
ここで注意したいのは、あまり力を込めすぎないことだ。折れるには折れるが、その勢いでソースが弾け釘爆弾よろしく四方に飛び散るだろう。
そうなっては目も当てられない。
様子見つつ、恐る恐る力を込めーーそして察した。

ーーーー無理だ。

関節を守るかのように殻が覆っている。アメフト選手のエルボーパッドが如く、鎧のように当てがわれたそれはあからさまに攻撃を拒絶している。
所詮、小ぶりな蟹である。
力を込めれば折れないことはないだろう。
だが、それが果たして良い結果を招くだろうか。
力任せに折った瞬間ソースが飛び散ることは必須。
加えて、脆弱な蟹肉もぶつりと分断されるだろう。
旅番組のような蟹肉が拝める可能性は無いに等しい。

私は静かに蟹を置いた。
お手拭きで手を拭くと、鮮やかなオレンジ色に染まる。
一息つき、改めてカニスプーンを構え甲羅に突っ込んだ。ガリガリ掻き出すと、白い蟹の身と一緒に蟹味噌がパスタの上に落ちてくる。身も思っていたよりは引き出せて、これはこれで楽しい。
お手拭きがその効力を発揮し切るギリギリまで作業し、蟹味噌と身を絡めるようパスタをフォークで巻き取り口に含む。

普通に美味しい。
「まぁこんなものか」の味である。

この結末を察しているが故、私は同じ店で2度以上カニのパスタを頼まない。
しかしまた、新たに踏み入れる店ではカニのパスタを頼むだろう。
どこかには、食べやすくて滅茶苦茶に美味いカニのパスタがあるのでは無いかという希望を捨て切れないからである。

あと、定期的にカニが見たいからである。

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