マッチ売りの少女からマッチを買った

マッチ売りの少女からマッチを買った。
クリスマスイブの晩だった。凍りついた大路の人通りは多く、誰も皆早足だった。僕は少女のふるえ続ける手に銀貨を一枚握らせると、そのまま手を引いて人気のない路地へと連れ込んだ。
狭い路地には風もなく、散乱する生ごみから臭気と共に立ち上る僅かな熱を感じた。紫色に腫れた足の横に籠を置こうとする少女を制し、僕は言った。
「マッチをくれ」
少女は困惑したように目を細めた。僕が握らせた金額は、たかがマッチに払うようなものではなかったからだ。僕は懐から出したシガレットを咥えた。少女は僕の顔色を窺いつつも、籠の中からマッチ箱を取った。
「擦らなくていい。箱ごとくれ」
僕は手を差し出したが、少女はもうマッチ棒を箱の側面で擦っていた。
ぼ、と薄闇の中に炎が生まれた。
薬品の臭いが鼻孔に入り込んだ。しかし次の瞬間、あ、と掠れた声を上げ、少女はマッチ棒を取り落とした。生まれたばかりの炎が消えた。
「どうした?」
僕は訊いた。少女は細い指で虚空をつまんだまま、何もない宙を見ていた。焦点のあわない目だった。
「いま、何かが……」
僕は地面に落ちたマッチの燃え滓と、少女の顔を見比べた。
「何かが、どうしたんだ」
重ねて問うたが、少女はぎこちなく首を振った。それ以上何も言うことなく、マッチ箱を差し出してきた。僕は受け取った。
今度は自分で火をつける。シガレットに火を移し、深々と吸い込む。肺の中身が攪拌され、濁っていく。それは僕の体内にもともとこびりついていた糞のようなものが、甘やかなタールと混ざり合ってできた濁りである。深く煙を吐くと、全ての汚らわしいものはこころよい虚脱感へと変わり、空に昇っていった。僕はそれを目で追った。

霜の降りた冷たい空に、無数の星は貼り付いていた。堪えきれなくなったように、その中からひとつの星が剥がれ落ち、斜めの尾を引いて消えた。
「今夜誰かが死ぬんだな」
僕は呟いた。誰から聞いたのかさえ記憶にない迷信だったが、なぜかするりと出てきた言葉だった。
何の反応もないので、横目で少女を窺うと、驚いたようにこちらを見上げる視線とぶつかった。少女の瞳の色はブルーグレイだった。
「迷信だよ。知らないか?」
僕が訊くと、少女は肯定とも否定ともつかぬ風に首を傾けた。
「……婆ちゃんに聞いた、ことが」
かぼそい声を発する唇は青ざめていた。白すぎる頬に静脈が透けていた。その顔に、ふと、別の女の顔が重なった。別の、ブルーグレイの瞳の女。血色は良く、頬は丸い。僕は目を擦った。一瞬の幻は簡単に拭い去られ、眼前には今にも倒れそうな少女だけが残った。
「座っているといい。寒いだろう」
声をかけながら、僕は少女から目をそらした。やや心が乱れていた。シガレットの火がいつの間にか消えているのに気づき、僕は舌打ちしてそれを捨てた。二本目を取り出し、マッチを擦る。小さな炎に照らされた闇の中に、女の顔が再び笑った。僕はマッチを取り落とした。

「……」
フラッシュバック? だが、いやに鮮明だった。僕は新たなマッチを擦り、今度はしっかりとシガレットの先に火をつけた。
煙をくゆらせ、息を整える。タールが心を沈着させる。闇の中を凝視していると、揺れる煙の中に新たな幻影が浮かんだ。もう動揺はなかった。僕は、女が明るい居間に立っているのを見た。そこには火の入った暖炉があり、炎を見つめる幼児がいた。
「君のマッチには魔法がかかっているのか?」
僕は呟いた。少女の返事は返ってこなかった。構わず、独り言のように続けた。
「不思議な幻が見えるよ。暖かい家だ。暖炉には火があって、食卓の上にはご馳走がある。家族が僕を手招いている。存在しないものを見せる魔法だ。残酷だね」
「……家、ないの?」
ぽつり、と不可解そうな、掠れた声が言った。少女はしゃがみ込んでいるのだろう、声は下の方から聞こえた。僕は視線をそちらに向けず、煙の中の女と見つめ合ったまま笑った。
「スリーピース・スーツを着た宿無しの男に見えるかい? 違うよ。帰る家はある。……でも、そこにいる女がちがっている。そこにいる子供も、食卓にならんでいる料理もちがう……」
口にしてみれば、くだらぬことのように思えた。突然僕は、自分がひどく馬鹿げたことをしているような気がし始めた。サンタクロースに会いたいと言って泣く子供のような。
「くだらない」
僕の思考を読み取ったように、思いがけず強い言葉が返ってきた。その声音は平坦で、ほとんど囁くようだったけれど。少女が何に反発を覚えたのか、僕には分かるようで決して分からなかった。

幻はやがて薄れ、何も見えなくなった。路地には闇だけが戻ってきた。時刻はもう遅く、大路の方では人声も靴音もまばらになっていた。僕は足下に視線を落とした。そこには火の消えたシガレットと、マッチの燃え滓が落ちていた。一、二、三……四本。少女が最初にマッチを擦り、それを取り落としたことを僕は思い出した。
「君は何を見たんだ?」
少女の弱々しい息遣いを邪魔せぬように、僕はそっと訊いた。返事を期待してはいなかった。数十秒ほどたって、投げ出すような一言だけがあった。
「答える義理がない」
「そりゃ、そうだ」
僕は笑い、それ以上何も言わなかった。

箱の中のシガレットを吸い尽くした頃、少女はもう死んでいた。

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