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掛け算に順序はない!という話

 昔、「人生いろいろ」と言って叩かれた政治家がいるらしい。政界きってのポエマーこと小泉進次郎氏の父、小泉純一郎氏だ。この言葉は色々な場面でふと私の頭の中に浮かんでくるのだが、実に味わい深い言葉である。世間を見渡してみると実に様々な人生があるわけだがたまに失敗作としか形容のしようのない「いろいろ」もあったりなかったりする。「掛け算に順序がある」と主張する人はまさにその例であるが、どうもこのかけ順派というのは日本の公教育の場でそれなりに幅を利かせてしまっているらしい。私自身も小学生の頃、これを巡って担任とバトルしたことがあるし、今でもテストの採点を批判するツイートが絶えることがない。
 そんなわけで、かけ順肯定派の言い分を、インターネットという荒波に漕ぎ出して探してくることにしよう。この世の真実というのはネット世界の中にあったりなかったりするものなので、ネットの上澄み(いや、この場合はヘドロだろうか)を掬って真実を知ったつもりになろうというわけである。幸いなことに、掛け算に順番があるという滑稽な主張を滑稽な根拠と共に声高に叫んでくれる人が多くいるおかげで情報収集には苦労しないで済んだ。インターネットというのはありがたいものである。
 まず、かけ順肯定派の主張は大体以下のように集約される。

①     掛け算は足し算の結果である
②     「かける数」が単位を決定する
③     かけ順を教えないと割り算で苦労する
④     教員がそう教えている
⑤     学習指導要領に書いてある
⑥     教員がそう教えている
⑦     交換法則は成り立たない場合がある
⑧     【番外編】主語がノートである

 いやはや、書いているだけで馬から落ちて落馬したときのような衝撃を受け、頭痛が痛くなってくるではないか。勝手に自分のことだと勘違いして誹謗中傷だなどと騒がれても困るので先に断っておくが、私が述べているのはあくまで「一般論として」このような主張をしている人がネット空間に見受けられるというだけであって、その発言について批判を加えているである。これらの屁理屈のいずれもが交換法則を否定できていないので掛け算に順番があるという自分の主張を正当化できていないのだが、一応一つずつ見ていくということにしよう。なお、かけ順派は正しい掛け算の順番について「1つ分の数×いくつ分」であると主張しているので、以下ではこれを前提とすることにしたい。

元町・中華街の路地(写真と本文は関係ありません)

「掛け算は足し算の結果である」論

 これがどういうことかというと、「掛け算は足し算の結果であるから順番が逆になるのはおかしい」ということである。言葉だけで説明してもわかりにくいので、具体例として「3人の生徒に飴を5個ずつ配る」という問題を考えてみよう。この問題の答えを掛け算で出すとしたら「5×3」あるいは「3×5」であることに疑問を持つ人はいないと思うが、この主張を展開する人は、「この問題は5+5+5という式で答えが導出される。これを掛け算の形にしたら5×3になるから式は5×3=15が正しく、3×5は間違いである」と言うのである。
 しかし、そもそも「掛け算が足し算の結果である」ことと「掛け算に順番がある」ことの間に因果関係がないし、この主張が正しいとすると困る場面が出てきてしまう。まず考えられるのが分数や小数が出てくる場合で、「0.3×0.8」という式を同様に解釈したら「0.3を0.8個足す」という意味の分からないことになってしまう。ちなみにこれを指摘された人は「これは3を8回足してから小数点を動かすと考えるんです(キリッ)」というようなことを言っていたのだが、そんな面倒な計算をしている人などいないだろう。そして、「小数点を動かすんです(キリッ)」などと言っている人は無理数、例えばπやネイピア数の掛け算はできないことになってしまう。有限小数なら何倍かして整数にすることもできるが、無理数が来たらお手上げである。挙句の果てに「πやeは足し算の極限」などと言っていたが、危うく私の腹筋が崩壊してしまうところだった。
 分数についても全く同じことが言えることは最早説明不要だろう。ちなみに例の小数点を動かす人は分数について「通分してから分子を足すんです」と述べていたがそれは計算方法の話であって、ある数を分数回足すということの説明にはなっていない。いずれにせよ、掛け算を足し算の結果として捉えているとおかしなことになる場面が必ず出てくることになる。
 しかも、5を3回足しているから5×3というなら、1×1000000を計算するときには1を100万回足さなければいけないということになってしまう。この角度から考えても、掛け算を足し算の結果と捉えることがいかにバカげているか容易に理解できるというものである。
 さらに、この問題は解釈次第で「3を5回足す」と解釈することも可能である。これについての詳細な説明は次項で行うことにするが、この「掛け算は足し算の結果である」論は複数の問題を含んでいることになる。
 もっとも、掛け算を足し算の結果と捉えること自体が間違っているわけではない。問題は掛け算を足し算の結果としてしかとらえられない人がいることであり、掛け算を足し算の結果としてとらえることできると考えることは間違いではない。実際に、掛け算を最初に教える時には「5+5+5を5×3と表すこともできる」とするのも間違いではないし、そう教えるのがわかりやすいだろう。ただ、そのように掛け算を導入することは交換法則を否定するものではないということである。

先日訪れた宮ヶ瀬ダム(写真と本文は関係ありません)

「かける数が単位を決定する」論

 これは所謂「単位のサンドイッチ」という理屈屁理屈である。a×bという式でaを「かけられる数」、bを「かける数」と呼ぶ勢力がいるのだが、彼らによるとこの「かけられる数」の単位が答えの単位になるらしい。aの単位と答えであるabの単位が同じだから「サンドイッチ」というわけだ。
 これも先ほどの「3人の生徒に飴を5個ずつ配る」という例で考えていくと、「この場合、かけられる数が5でかける数が3になる。だから式は5×3で、かけられる数の単位である『個』が答えの単位になる。」というのが彼らの主張である。この主張については、①かける数・かけられる数の定義があいまいであること、②式が単位を決定するとしていることの二つの問題を含んでいる。どういうことか見ていこう。
 まず、かける数・かけられる数の恣意性である。先ほどの問題は一人の生徒に対して飴を5個ずつ渡す行為を3回繰り返すと解釈することもできるが、トランプを配っていくときのように一人に一個ずつ配る行為を5回繰り返すと解釈することもできる。前者の解釈をすれば1回に配るのは5個ずつだが、後者の解釈をしたら1回に配るのは3個ずつである。つまり、問題をどのように解釈するかで「1つ分の数」が変化してしまうことになる。言うまでもなく問題をどのように解釈するかは解答者次第なのだから、掛け算の順序が違うから減点するというのは完全に恣意的な採点である。どうしてもこれで減点したいなら、複数の解釈が絶対に発生しないような厳密な出題をするのが作問者の義務だろう。
 そして、この式に単位を決定させるという「単位のサンドイッチ」の主張はさらなる混乱を生じさせることになる。単位のサンドイッチを前提とすれば、この問題をトランプを配るように解釈した場合に答えの単位が「人」になるので、「飴が15人いる」という意味不明な答えになってしまう。この問題は式と答えの単位を切り離して考えれば発生しなくなるし、そもそも答えの単位は問題文に書いてあるのだから迷うわけがないのである。ちなみにサンドイッチ論者の中には「『何個ですか?』と聞かれているから単位が『個』の数を先に書く」などと予想の斜め上の主張をしている人までいるのだが、それが通るなら単位が『個』の数を後に書くと教えてもいいわけだから、もはや屁理屈にすらなっていない。
 しかも、速さの問題を扱うときに「単位のサンドイッチ」は明確に理論崩壊する。例えば900km/hで進む飛行機が1時間飛んだら、進んだ距離は900kmである。このことに疑問の余地はないわけだが、これを単位のサンドイッチで考えると式は「900km/h×1h=900km/h」となり、「飛行距離が時速900km」という意味不明なことになってしまう。「/hは単位ではない」などと言ってくる人がいそうだが、/hがない「km」は速さではなく距離の単位である。ちなみに先ほどの式の順序を逆にすれば、「飛行距離が900時間」という素敵な答えを出すことも可能になってしまう。つまり、式に単位を決定させることが誤りなのである。
 ただ、式が単位を決定することが絶対にないかと言うとそんなことはなくて、面積や体積を出すときにはcmとcmをかけたら単位はcm^2になるし、cmとcmとcmをかけたら単位はcm^3になる。他にも速さを教える時には「時速には時間しかかけない」「分速には分しかかけない」というように単位に注意を向ける必要があることはあるが、だからと言って式を書くときに順番に制限が加わるわけではないということも付け加えておこう。いずれにせよ、この理屈もまた成立していないというわけである。

GT-Rのエンジンでも見て癒されてください(写真と本文は関係ありません)

「かけ順を教えないと割り算で苦労する」論

 世の中には掛け算に順番がないと割り算で苦労する人がいるらしい。人生いろいろである。この理屈は(今までと同様に)理解に苦労するのだが、おそらく割り算をするときに答えの単位になるものが先に出てくるから掛け算でもそのようにしておこう、ということだろう。この理屈に対する反論は「掛け算と割り算は別物だ」以外にないのだが、これだけで済ませるのも味気ないので総理大臣よろしく一応検討に検討を重ねておくことにしたい。
 確かに割り算だけ見てみると「割られる数」の単位が答えの単位になる場合が多いと言える。速さ、面積、体積の場合には割られる数の単位と答えの単位は違うものになるのでここでも式と答えの単位を結びつけるという考え方そのものが有害なのだが、ひとまずそれでいいということにしておこう。そうしないと話が一向に進まなくなってしまう。とは言ったものの、ここから進める話もない。最初に言った通り、掛け算と割り算が別物である以上、これ以上コメントすることがないのだ。
 ちなみに、割り算で苦労する原因はおそらく「日本語が読めていない」ことである。例えば「15個の飴を3人で分ける」という問題に対して3÷15などと立式する子どもは算数の前に国語を勉強した方がいいだろう。そもそも、問題を理解させるという作業を放棄して「答えの単位が付いている数が前に来る」などと教えている教員がいたとしたら職務怠慢もいいところである。

大さん橋から出航していく飛鳥II(写真と本文は関係ありません)

「教員がそう教えている」論

 「授業で教えられた順番が正しいんだ」などと主張している面白い人がたまにいる。まず「授業で教えたこと以外は×」と真顔で言ってしまう人が「先生」という権威を笠に着て教育現場に放置されているという事実がどんな怪談よりも恐ろしいのだが、採点基準が「教員が教えたことかどうか」であるというのは一周回って面白い話である。さらに、「掛け算には順番がある」などとデタラメを教えている人間が「教員が教えたことは正しい、それ以外は認めない」などと言っていると考えるとあと1年くらいは笑っていられそうだ。有害無益なかけ順指導も、私の健康維持に貢献するくらいの効果はあるのかもしれない。
 このような質の低い教員が私の健康維持に貢献してくれるとは言っても、そんな人間が公教育の現場に放たれたままでは困ってしまう。「教員が教えたこと以外認めない」とするなら、子どもが自ら学ぶということを放棄しかねないからである。「おかしなことを言っている教員を論破してやろう」と考えていた私のような「困った」子どもはそうではないかもしれないが、「教えたこと以外は×」という運用をしていれば普通の子どもは「じゃあ教わったことだけやろう。他の考え方は知らなくていいや」となってしまう。これが悪影響であることは言うまでもない。日本でイノベーションが生まれない一因はここにあるのではないかというのが私の見解である。
 せっかくだから付け加えておくが、「習っていない漢字を書いてはいけない」という指導も同様の結果をもたらす。自分で漢字を勉強してそれを書いても評価されないどころか否定されるのだから、学習意欲が減衰してしまう。私もこう言われたことがあったので理由を聞いてみたら「配る係が困るから」というのが答えだった。それなら配る係が漢字を勉強すればいいだけだし、ふり仮名を書くことにするなどの工夫をすることも可能である。そうやってクラス全体として新しい漢字を知っていけばいいのに、子どもの成長の機会を奪う人間が教員をやっているとは、世も末であると言うほかない。
 おそらくこのような頓珍漢な指導がまかり通っている原因は教員の能力不足である。この指導の根拠について複数の教員が「教えた内容を確認するため」などと主張しているが、深層心理のどこかで子どもが解いた解答を教員が理解できないという事態が発生することを恐れているはずだ。教員は政治家と並んで「わかりません」と「ごめんなさい」が言えない生き物だが(※個人の感想です)、教えたこと以外を誤答とする運用にしておけば「わかりません」を言う必要がなくなる(自分が理解できない=教えていない解答は×にしてしまえばよい)ので、この採点方式は(教員にとっては)合理的なのである。学力が足りないのも論外だが、わからないものをわかろうとしないその姿勢も教育者として不適格と言わざるを得ないだろう。

阿寒湖の夕暮れ(写真と本文は関係ありません)

「学習指導要領に書いてある」論

 「学習指導要領に書いてあるから掛け算に順序がある」と主張する人もいる。結論から言ってしまえば、学習指導要領にそんなことは書かれていないので彼らの言うことは全くのデタラメである。
 掛け算を初めて掛け算を学習するのは2年生なので、2年生の学習指導要領を見てみることにしよう。学習指導要領には「乗法に関わる数学的活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する」と書かれており、詳細については以下のように記されている。

ア   次のような知識及び技能を身に付けること。
ア  乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知ること。
イ  乗法が用いられる場面を式に表したり,式を読み取ったりすること。
ウ  乗法に関して成り立つ簡単な性質について理解すること。
エ  乗法九九について知り,1位数と1位数との乗法の計算が確実にできること。
オ  簡単な場合について,2位数と1位数との乗法の計算の仕方を知ること。
イ   次のような思考力,判断力,表現力等を身に付けること。
ア  数量の関係に着目し,計算の意味や計算の仕方を考えたり計算に関して成り立つ性質を見いだしたりするとともに,その性質を活用して,計算を工夫したり計算の確かめをしたりすること。
イ  数量の関係に着目し,計算を日常生活に生かすこと。

 これらの表現のどこにも掛け算に順序があるように指導せよとは書かれていない。「計算の意味…を考え」という表現を根拠にかけ順を主張しているとも考えられるが、先ほどから述べている通り計算の意味を一通りに捉えられない以上はこの表現をもって掛け算に順序があると主張するのは無理筋である。むしろ、「計算に関して成り立つ性質」が交換法則であると考えるのが妥当だろう。
 さらに、学習指導要領には「解説」なる文書も存在するのでそちらも見てみよう。ここにはなんと、「…交換法則を取り扱うものとする」と書かれている。おお、交換法則は2年生が取り扱っていいものだそうである。「習ったことしか使ってはいけない」論者の主張は、何と学習指導要領から外れているようだ。
 この先を読み進めていくと、「1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数」を求めることについて、5を4回足すという数え方も、4を5回足すという数え方もできるとしたうえで「しかし,5個のまとまりをそのまま書き表す方が自然である。そこで,『1皿に5個ずつ入ったみかんの4皿分の個数』を乗法を用いて表そうとして,一つ分の大きさである5を先に書く場合5×4と表す。」と書いてある。おそらくここに注目して掛け算に順序があると主張する人がいるのだろうが、重要なのは「一つ分の大きさである5を先に書く場合」という文言である。この表現は、一つ分の大きさである5を先に書くよう指導するということと同義ではないと捉えるのが自然だろう。「場合」というのは仮定を置いているだけだからである。もちろん、これは試験で減点する根拠になっていない。
 かけ順派が根拠としているのだろうと推測される表現はもう一か所あって、それが「ここで述べた被乗数と乗数の順序は,『一つ分の大きさの幾つ分かに当たる大きさを求める』という日常生活などの問題の場面を式で表現する場合に大切にすべきことである。」という部分である。「大切にすべき」と書いてあるから順序を守れ、などと言うのであるがこれも解釈が間違っている。大切にすべきとは書かれているが、そうしないと間違いであるとは書かれていない。この部分についても、テストを採点するときに順序が逆だからといってそれは間違いではなく、したがって減点する根拠にもなっていないのである。

知床の絶景(写真と本文は関係ありません)

「交換法則は成り立たない場合がある」論

 これもまた驚きである。法則が場面によって成り立ったり成り立たなかったりしたらそれは法則ではない。算数を学ぶ前に国語を学んでほしいものである。

「【番外編】主語がノートである」論

 これはこの記事を執筆し始めてからTwitterを徘徊していたら見つけた発言なのだが、大変とっても非常に面白かったので取り上げておくことにする。「ノートを9人に配ります。1人に3冊ずつ配ると何冊いりますか」という問題に対して「9×3」という式を書いて×をつけられたというツイートに対して「主語はノートであって人ではない」という反論(?)をしている人を目撃してしまったのである。曰く、「回りくどい問題文を『3冊のノートを9人に配る』と整理できたことを式で伝える」必要があるらしい。
 そもそも主語が何か、という話を始めると長くなるので省略するが、この問題文の主語がノートではないことだけは明白である。主語というのは述語に対応している「何が」に相当する部分であるが、ノートが主語だということになると「ノートがノートを配る」あるいは「ノートが人を配る」という意味不明なことになってしまう。そもそも問題文の主語が何だとしても交換法則を否定する根拠になっていない。ま、こんなツイートを詰めても意味がないのでこれくらいにしておこう。それにしても、ノートに配られる人の姿を想像するとなかなか面白いものがある。

増上寺の夜景(写真と本文は関係ありません)

 そんなわけで、かけ順派の主張の何がおかしいか、微に入り細を穿って検討してきたが、やはり何を言っているのか理解できる部分はあっても、納得できる部分は何一つとしてなかった。結局何を言っても、交換法則を否定するだけの主張はなされていなかったわけである。人生いろいろであるから教員もいろいろであって構わないし、教員がいろいろであるのは教育上良いことだと思っているが、嘘を教える人が現場にいては困りものだ。

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