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『生きることは死ぬまでの暇つぶし』

折に触れ何度も思い出す逸話がある。

NYの投資銀行家とメキシコの漁師の話だ。

メキシコの海辺でゆっくりと休暇を楽しんでいた銀行家は、現地の漁師に話しかける。「こちらの魚は本当に新鮮ですばらしい。NYの一流シェフにも引っ張りだこになるでしょう。あなたは昼過ぎには漁を終えてしまうようですが、もっと事業を拡大してみませんか?例えば漁船を買い入れ、人を雇い、漁獲高をあげる・・・」
「そしてどうするんだい?」
「卸先も地元の市場だけではなく、メキシコ全体あるいは先々海外にまで増やす・・・」
「そうしてその後は?」
「あなたは巨額の富を得る。」
「なるほど。で、お金持ちになってからはどうなるのかな?」
「美しいビーチで家族とゆっくりと時間を過ごす毎日を得ることができますよ」
「・・・ならば、すでに手に入れているんだがね」

NYではなくてドイツのエンジニアだったり、メキシコではなくてギリシャの漁師だったり、複数バージョンがあるのだけれども。

かなり長い間、この話は「働く意味や収入を得る目的を間違えちゃいけないってことだわな」と私は考えていた。経済的自由を求めて高収入を目指す人は多いが、その目的が「自由な時間を手に入れること」ならば、わざわざ廻り道をすることはない。もっと本質的なものを見なければ、と。私自身、自由に好きなことができる時間を得ることが究極の「あがり」だとも思っていたし。

だが最近、この解釈は間違っていたんだな、と突然窓が開いて新しい風が吹き込むように、新しい思いがわいてきた。

目指すものが美しいビーチでのひと時だったとしても、NYの銀行家は漁師になりたかったわけじゃないんだよな、と。

「生きることは死ぬまでの暇つぶし」だと私は思っている。何をふざけたことを、と言われそうだが、人生なんて放っておいても無理難題が勝手にやってくるから、それぐらいの気持ちでないとやっていけない。そう思う程度には人生の上がり下がりを経験してきた。コロナウィルスやら不景気やらAIやらで「いつまでこの会社でこの仕事をしていられるんだろう?」と不安に駆られたときでも、「そうはいっても、戦争をせず、民主主義を基盤とした経済大国に暮らしているんだから、しかるべきところに助けを求めれば、飢え死にはせんだろよ」と。今日死ぬかどうかという日々を生きてるわけじゃなし。


ならば死ぬまでの暇つぶしにやっているのはゲームだ。お金という視点で見れば、一生を通じて「モノポリー」的ゲームをしているようなものだ。仕事のスキルを考えれば、HP/MPを集めるロールプレイングゲームをやっているとも言える。派手に勝ち続けるゲームもあれば、負け戦に次ぐ負け戦になることもある。


とはいえ、人生の美しさは、「無限大にゲームがある」ということ。一生をかけてプレーするゲームもあれば、数時間だけのゲームもある。他人と競わなくてもいい。戦う相手は自分だけでもいい。高い収入を目指す代わりに、社会への貢献を目指してもいいし、できるかぎり少ない労働時間で楽しく生きるクエストでもいいのだ。あるいは、勝たなくていいゲームだってあるに違いない。


とどのつまり、投資銀行家も漁師も彼らなりのゲームを選択していただけだ。到達点が同じ「メキシコの海辺」だっとしても、銀行家は漁というゲームに興味はないし、漁師も事業投資ゲームをしたいわけじゃない。ただそれだけのことだ。ゲームをする理由はゲームそのもの。

とうわけで。

あなたがプレーしたいゲームは何ですか?

そして・・・どうせ人生は死ぬまでの暇つぶし。

ささいなことでも面白がって行こうよ!

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