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西暦1077年、今から約1,000年も
前のことである。

イタリアにあるカノッサ城
一人の男がやってきた。
身分卑しからぬ風体のその男は
武器をすべて手放して、
修道士の格好になると、
城の前に座ってこう叫んだ、といわれる。

「どうぞ、お許しを…!」

許しを願った男の名は
ハインリヒ4世。
神聖ローマ帝国の皇帝にして
ローマの王様であった。

彼は誰に許しを願ったのか?

それは、ちょうどカノッサ城に
滞在していた
グレゴリウス7世という男である。
時のローマ教皇であった。

この頃、キリスト教(カトリック)の
頂点に立つローマ教皇は、
たいそうな力を持っていた。

歯向かうものは「破門」にする。
破門された者は、教皇に弓する者。
キリスト教世界では影響力を失う。
ハインリヒ4世は、王の地位を
剥奪される危険性が高まっていた。

教皇はハインリヒ4世の
この突然の訪問に感銘を受け、
その信心を認めて
破門を解いた、といわれている。

…これが、人呼んで「カノッサの屈辱」
「カノッサ事件」の概要である。

ただし、だ。

歴史上の
多くの事件がそうであるように、
この事件も省略と脚色が
多くなされている、そうだ。

まず、「王は雪の中で裸足で
食事もなしに3日間立っていた」
とよく言われるのだが、
これは後世の脚色らしい。
また、教皇は最初、
「王が私を捕らえに来たのだ!」と
恐れて、城から出なかったそうだ。
決して勢威を見せつけるために
相手をしなかったわけでは、ない。
何を仕出かすかわからない王を
怖がっていた
のである。

「王が全面降伏するために、
ごめんなさいを言いに来た」
という事件では、ない。

それの証拠に、破門を解かれた王は、
王位剝奪の危機を乗り越えると、
ライバルの「対立王」こと
シュヴァーベン大公ルドルフを
打ち破る(戦いには負けたりしている)。
後には、ローマを包囲して、なんと
この教皇グレゴリウス7世を追い出し
新教皇クレメンス3世を擁立している。

いわば「カノッサの屈辱」
(本当の屈辱ではなかったが)を
リベンジしている、のである。

このように、この事件は
王と教皇を含めたイタリアの
泥沼の勢力争いの一コマに過ぎない。

それが針小棒大に脚色され、
前後が省略されて拡大解釈されて
「カノッサの屈辱」という
強烈なパワーワードが独り歩き。
約1,000年後のヤフーニュースや
LinkedInに取り上げられている↓

(その後のハインリヒ4世の行動から
考えると、「ただ単に自分の地位を
守るために、形式上の『破門』を
解きに行って、その後、
トヨタに復讐する」
ということに
なってしまうんですけれども、ただ単に
「はだしで3日雪の中で許しを願った」
という印象に残りやすい
脚色部分だけを取り上げて
なぞらえているだけのような…。
そもそも「屈辱」を受けたのは
メダリストの方のような…)

「歴史」というものの
怪しさと危うさ、
脚色し省略されるがゆえの
「魔力」を示している
、と思う。

さて、読者の皆様におかれましては
自分の行動や選択が
いつのまにか脚色や省略を施されて
「歴史的な事件」に
なっていることはありませんか?

「カノッサの屈辱」のように、
いつのまにかゆがめられて
伝わっている
かもしれませんよ。
どうぞ、ご用心のほどを…。

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