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日本では「四川料理」が有名ですよね!
麻婆豆腐に回鍋肉、火鍋に
そうそう、担々麺も…と考えると
ザ・中華という感じを私は抱きます。

…しかしですね、中国の中でも
「四川」というのは、かなり
刺激的な歴史を歩んできているのです。

本記事では、あまり知られていない
「四川」の歴史にスポットを当てて
書いてみたい、と思います。

まず、場所を確認しましょう。
…「三国志」がお好きな方なら、
なんとなくイメージがつくかもしれません。

「北のほうは曹操の『魏』(ぎ)、
海側の南東のほうは孫権の『呉』(ご)、
そして劉備は南西の山の中の『蜀』(しょく)、
つまり、四川の辺り。

これぞ孔明の唱えた『天下三分の計』ですよね!」

まあ、そうですね。

劉備は成都という街を占拠して、
ここを中心に「蜀」という国をつくり、
(「食」ではありません)
曹操や孫権に対抗していきます。

成都。せいと。チェンドゥ(チョンツー)。

四川地方でも、昔から栄えてきた街です。
人口、約千六百万人。
ただ現在、四川地方で栄えている
世界的な有名な都市は、もう一つある。

重慶。じゅうけい。チョンチン。
人口、約三千万人の大都市。

成都と重慶、この二つの街を押さえたい。
四川地方(省の名前は四川省)は、
この二つの街を抱えた
「四川盆地」が中心になります。
成都は盆地の西のほうにあり、
重慶は盆地の東のほう。

盆地、とはいえ、めちゃめちゃ広いんです。

何しろ大陸、スケールがでかい。
その面積、およそ十六万平方キロメートル。
日本の面積は
約三十八万平方キロメートルですから、
日本の約四割ほどの広さになります。
四川盆地「だけ」で
東日本ほどの面積がある
、と思ってください。

盆地なので、四方を山で囲まれている。
川は、長江へ合流して東へ流れている。

中国大陸はとにかくだだっ広い平原の
イメージがあると思うのですが、
四川盆地は山の中です。
まさに「天然の要害」と言ってもいいでしょう。

蜀の大臣だった諸葛亮、いわゆる「孔明」は
「沃野千里、天府之土」と評したそうです。
米がたくさん採れる穀倉地帯!
茶も生産量もたくさん、茶文化発祥の地でもある。
今なら、天然ガスがたくさん取れます。

食べ物はたくさん、資源も豊富。
つまり「立て籠もる」には
絶好の場所
、なんですよ。

事実、三国志の劉備以外にも、
この地に「立て籠もって」時の実力者に
「反抗」してきた歴史があるのです。

例えば、モンゴル帝国が世界征服に乗り出し、
中国にも攻めてきた時。十三世紀の頃。
「南宋」という国が、それに抵抗します。

モンゴルの指導者は、第四代のモンケ・カアン。
彼はこの南宋を滅ぼすべく、自ら出陣しました。

南宋軍は、四川盆地の釣魚山に城を築きます。
今の重慶の近くにある山です。
徹底抗戦!
なんと、南宋軍はこの城において
三十年以上もの長い間、
世界最強のモンゴル軍の攻撃をしのぐ
のです。

三十年以上、ですよ?!

その間、1259年にモンケが
流行り病にかかって死亡するほど…。
簡単には負けない。
もしこの「釣魚城」があっけなく落ちていれば、
世界の歴史はかなり変わっていたことでしょう。
「『天の鞭』(モンゴル軍の攻撃)を止めた城」
として、歴史上有名なのです。

さて、時代が変わって、
明王朝から清王朝に変わる時もそう。

衰えた明王朝に対して、
「張献忠」という男が反乱を起こします。
彼は色々な場所を転戦していきましたが、
後に四川地方に入り、抵抗を続けます。

自称「大西皇帝」。

成都を「西京」と呼ばせます。
じき、中国の北東部から女真族が入り、
「清王朝」が中原を支配していきますが、
彼はこの清に対しても抵抗する。
独立政権を作りやすい土地なんです。

…ここで、ちょっと驚く数字を
挙げてみますけれども。

1578年、明の時代に
人口が「約三百万人以上」だった四川は、
清の時代、1685年には
人口が「約二万人」になっていた
そうです。

明から清に代わる戦乱の時代に、
人口が極端に減っている。
ほとんど滅亡レベル…。

私もこの数字、二度見しました。

三百万人が二百万人、じゃないですよ。
三百万人が、二万人…?!

ある歴史書では、この張献忠がひたすら
無差別殺戮を行った、と書かれています。
ただ、死人に口なし、とばかりに
清軍が入った時に住民を殺してしまったことを
全部、張献忠の罪にした、のかもしれない…。
あるいは、その両方?

そのあたりは歴史の闇の中ですが、
とにかく、この『屠蜀』という事件によって、
古代からこの地に住んでいた
四川の人たちはほぼ壊滅した…と言います。

そのため、新しく中国を支配した清王朝は、
『湖広填四川』(ここうてんしせん)という
政策を行ったそうなんです。
湖広、つまり今で言う
湖南省、湖北省、広東省の辺りの人たちを、
四川に「補填」していく移民政策。
その数、およそ数百万人!

現在の四川省の重慶の辺りの言葉は、
湖南省や湖北省、広東省の方言に
近い人が多い、と言われていますが、
それは、この清王朝時代の
大規模な移民政策の影響なんですね。

さらに時代が下って、
日中戦争において大日本帝国軍が
中国(当時は中華民国)に攻め込んだ時も、

時の指導者「蒋介石」は
重慶に立て籠もって徹底抗戦
しています。
日本は、これを攻めきれなかった。

魏に対する「三国志の劉備」。
モンゴル帝国に対する「南宋の釣魚城」。
明や清に対する「張献忠」。
日本軍に対する「蒋介石」。

…四川は、反抗の地方、
そういう歴史を持つ土地なのだ、と
言ってもいいのではないでしょうか?

最後に、まとめます。

本記事では、四川の歴史について書きました。
四川とは「四つの川」という意味とも、
宋の時代に置かれた「川峡四路」という
地区名から来た、とも言われています。

なお、戦後になると、この四川の出身として、
日本でもよく知られている
二人の有名人が現れています。

一人は、陳建民

日本における「四川料理の父」とも呼ばれます。
彼は二次戦後の「国共内戦」で台湾に逃れて、
後に日本に渡り、赤坂で料理店を開きます。
その子どもが『料理の鉄人』でも名高い
「陳建一さん」です。

もう一人は、鄧小平です。
何度失脚しても立ち上がってきた「不倒翁」
改革開放路線をとって、
現代の中華人民共和国の基本路線を
築いた政治家です。

麻婆豆腐、回鍋肉、火鍋、担々麺…。
四川料理は、そのしびれる辛さと旨さで
人々を魅了し続けています。

しかしその背景には、
孔明が「沃野千里、天府之土」と評した
とても豊かな自然と、

実力者が相手でも簡単には屈しない
とても歯ごたえのある気骨がある。

読者の皆様も、次に四川料理を食べる時には、
四川の「反抗の歴史」「激辛の旅路」
想いを致してみてはいかがでしょう?

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