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「おおきく振りかぶって」の保護者 ~鳥見桐人の漫画断面図9~

親にとって子どもは、いつまでも子どもである。

たとえ老人になろうとも、親にとっては子ども。子どもにとって親は親。これは動かせない事実。

人間は、一人では大きくなれない。必ず保護され、育てられる。赤ちゃんの頃は、四六時中お世話をされる。食べること、排泄することすら、一人ではうまくできない。みんな、そうだった。ただ、成長の中で忘れるだけ。保育された記憶は薄れていく。反抗期・思春期には、逆に保護者から距離を取ろうとする。

…ある朝、俺はニュースを見ていた。児童虐待、老老介護殺人、相続のもつれ、家族に関わる陰惨な事件が多かった。家族の縁には薄い俺だが、こういうニュースには心が痛む。

俺はテレビを消して立ち上がった。朝飯はまだ。腹も減った。「てなもん屋」でモーニングセットとしゃれこむか。

俺の頭の中では、ひぐちアサさんの野球漫画「おおきく振りかぶって」の、夏の甲子園地区予選の開会式のシーンが思い浮かんでいた。

この通称「おお振り」は、それまでの野球漫画とは明らかに異質だ。「ドカベン」の里中とは正反対の、弱気でウジウジしたピッチャー。「ドカベン」の山田とは正反対の、腹黒さがにじみ出るキャッチャー(配球が凄い、というのは共通している)。このバッテリーが、ナチュラルな変化球「まっすぐ」を武器に、いかに相手打線をかわしていくかが、序盤のキモだ。

この漫画では、これまでの野球漫画では、あまりクローズアップされてこなかった部分にも焦点が当たる。メンタル野球、科学的トレーニング、応援団目線…。たくさん見どころはあるのだが、その1つが「保護者目線」だ。

各登場人物の設定が、事細かになされている。

単行本の表紙のカバーのそで(折り返して内側に入った部分)には、登場人物紹介のコーナーがある。そこには各登場人物の「親や兄弟姉妹の設定」まで書かれている。巻が進むと、保護者自身の紹介までイラスト付きで描かれ、自分の子どもの小さい頃の写真を持っている、という徹底ぶりだ。

地区予選の開会式のシーンでは、その保護者たちが、出てくる。

選手が、つまり子どもたちが、行進する。その姿だけで、保護者たちは感動し、涙する。うちの子が歩いているわ!と、ビデオを回して大騒ぎ。選手目線から言えば、騒ぎすぎだ。勝負はこれからなのに、なぜ開会式で大騒ぎするのか?

しかし、保護者たち目線からすれば、これが一つのゴール、なのだ。なぜならば保護者たちの脳裏には、子どもが生まれた時の、か細い命の姿が思い浮かんでいるのであろう。それが成長し、あの「高校野球」の舞台で堂々と行進している! その事実だけで、感涙しているのだ。

…実際の高校野球の地区予選の開会式でも、まさにこのような場面が展開されている。

球場には、選手だけでなく保護者もつめかける。一発勝負のトーナメントだ。集まったチームの半数は、初戦で負ける。高校三年生は負けたら即引退。弱小チームなら、みんなで集まれるのはこれが最後かもしれない。保護者同士で写真を撮る。選手とツーショットで写真に納まろうとする保護者もいる。照れくさがって嫌がる思春期の選手もいる。このような風景が、そこかしこで展開されている。

「おお振り」の作中でも、仲間たちに目配り気配りのできるキャプテンが、自分の母親を前にして「つっけんどんな態度」を取る場面がある。仲間たちの前で母親と談笑するわけにはいかない、という男子高校生の見栄と照れ。これぞ思春期のリアルだ…、と思わせる。

そう、おお振りは、これまでスポットの当たらなかった「高校野球生活のリアル」を、様々な角度から読者に見せてくれる漫画なのだ。

…俺は、旧友が経営する漫画喫茶「てなもん屋」に着いた。

「おう、珍しいな桐人、お前が朝に来るのは」
「モーニングセット、ホットコーヒーで。それと、おお振りの開会式」
「開会式は…4巻だ」

奴は話が早い。俺は4巻を手にして、読み始めた。

おお振りは登場人物同士の掛け合いが良い。ビビりのピッチャー、オラオラ系のキャッチャー、おせっかいなキャプテン、天然だが人間関係の空気を読むのが鋭いスラッガー。この4人を軸に、話が展開していく。

トーストを食べ、コーヒーを飲み干した俺を、奴がスタッフ控室に呼んだ。語りたいらしい。望むところである。

「おお振りはな、人生のつながりを読ませてくれるんだ」

控室で、待ちかねたように、奴が切り出した。

「つながり?」

「そう、高校野球はそれだけで完結しない、というつながり。高校野球の前には、少年野球や中学野球がある。高校野球の後には、大学・社会人・プロ野球・草野球などがあるが、そちらには進まない人もいるだろう。それぞれの段階での背景には、家族がいる。人とのつながりもある。それらの大きなつながりの中で、高校野球がどう位置付けられているかを、読者に考えさせる作品だ。これはすごく難しいストーリーテリングなんだぜ」

「ひぐちアサさんは、他の作品の『家族のそれから』や『ヤサシイワタシ』で、家族や人生について描いているな」

「そう、おお振りが大ヒットしたから、野球漫画のほうに集中しているけれど、もともとは家族や心理、生と死をえぐり出す作風。おお振りにもそれらが息づいている」

ピッチャーがなぜウジウジしているのか。キャッチャーがなぜ強気なのか。キャプテンがなぜ面倒見が良いのか。スラッガーがなぜ空気を読むのがうまいのか。…これらは、彼らの家族の描写、高校以前の生活の描写によって、読者にわかるようになっている。「つながり」をあえて見せることで、キャラへの理解が深まる。…奴はそう説明した。

「でもな、桐人。これは漫画という表現の限界を理解していないとできないことなんだ」

「というと?」

「漫画は、取捨選択と誇張で成り立つ。何を描くかは大事だが、何を描かないか、というのも大事だ。コマは有限、ページも有限。その中で、家族の描写や保護者の描写に、その空間を大きく割いている。逆説的だが、その緻密な描写をすることによって、読者が脳内でキャラの属性を補完してくれるようになる。『こいつはこういう人物だ』ということを『説明せずに』済ますことができる。一見冗長のように見えて、実は効果的に登場人物を動かすための布石だと、俺は見ている」

「なるほど…」

「昔からよく言うだろ。『親は無くとも子は育つ』。だけど」

奴は言葉を切って、そして続けた。

「親を出すことによって、キャラは育つ」

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いかがでしたでしょうか?

今回はひぐちアサさんの「おおきく振りかぶって」の開会式のワンシーンに焦点を当て、その「保護者論」を考察・紹介してみました↓

「おお振り」以外の作品を読んでから「おお振り」を読むと、また違った感慨が生まれます↓

野球がよくわからない方は、そちらから読み始めるのも良いかと思います。家族の諸問題をストレートに描いているので、作者にきりきり舞いの三振に取られるかもしれませんが…。

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