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3賛七描史(日本の政治)~「2、箒をはくビスマルク」「3、神様は毒舌家」「4、妖怪カミソーリ」~

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(この記事は、下記の『3賛七描史(日本の政治)~30年ずつ区切って、賛否両論ある人物七人を描写する歴史~』の「2~4」の部分だけを切り取った記事です。興味のある方は、ぜひ続きを)

2:箒をはくビスマルク:1871年~1900年

次の30年を、一文であらわすと、次のようになる。

1871年~1900年
『近代と憲法』:明治新政府が欧米諸国を手本に近代化を進めた時代

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣として知られている。近代化を進めた政治家と言えば、真っ先に彼の名前が挙がっても良いだろう。ところが、彼もまた賛否両論の激しい人物である。

「否」のほうから先に言えば、やはり1910年の「韓国統合」までの流れの、象徴的な人物というイメージがある。1905年に、彼は韓国統監府という組織の初代統監に就任した。そのため日本版の帝国主義の象徴として、特に朝鮮半島に住む人たちからの評判はすこぶる悪いのである。彼自身は前年の1909年に暗殺されているが、暗殺者のほうが「国民的英雄」「義士」としてたたえられている。

とはいえ、「賛」の功績もまた否定できない。1871年から1900年までの30年間、彼は日本の政治の中心にあり、日本の近代化のために力を尽くしてきた。ここでは、この30年を、彼の政治的な人生を中心に据えて見てみたい。

1841年に長州藩(現在の山口県)に生まれた彼は、いわゆる「明治維新」のための志士として奔走した。有名な吉田松陰の「松下村塾」に入り、幕府を倒すために力を注いだ。桂小五郎(木戸孝允)や、高杉晋作といった、維新の英雄たちとともに行動した。「俊輔(伊藤)には、周旋(政治)の才がある」と、吉田松陰は評価したという。軍事や謀略などよりも、彼は人と人とをつないで、物事をまとめて進めることに力を発揮した。

1871年、廃藩置県の年。彼は「岩倉使節団」の一員として、欧米に旅立った。近代化を進めるために、すでに近代化を済ませている欧米諸国を見て回ることは、明治の新政府にとって、必要不可欠だった。

しかし実は、彼にとってはこれが初めての海外渡航ではない。維新前の1863年に、密かにイギリスに留学していたのである。彼と4人の仲間は、合わせて「長州ファイブ」などと呼ばれていた。「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れる中、彼はすでに欧米の近代文明をその目で見ていたのである。その上で岩倉使節団の副使として、彼は再度、欧米諸国を目の当たりにした。人間だれしも、1回目は情熱的なお試しで、2回目からは冷静に客観的に見ることができる。この「留学経験の豊富さ」が、欧米を手本にして近代化を進める明治新政府にとって、出世へのパスポートであったことは容易に想像できる。

使節団の帰国後、1877年に西南戦争が起きる。一言で言えば、西郷隆盛と大久保利通の国家観の違いによる、旧薩摩藩の重鎮同士の同士討ちである。彼はこの流れの中で、大久保利通と親しくなった。西南戦争後に大久保が暗殺された後は、後を継いで内務卿に就任する。自由民権運動の高まりの中で、1881年(明治14年)に急進的な大隈重信を下野させつつ、10年後の国会開設を約束し、ますます明治政府の政治の中心人物となっていった。

1882年、彼は自身三度目のヨーロッパ留学に出発した。目的は「憲法の調査」。主な訪問先は、当時強国としてぐんぐん国力を伸ばしていた、プロイセン(ドイツ)である。ここで学んだことを活かして、彼は1885年に「内閣制度」を作った。その際に、他の政治家たちはトップの人事に注目した。さて、誰が初代内閣総理大臣に就任するのだろうか?

有力な候補は2人いた。1人はもちろん伊藤博文、もう1人は公家の三条実美(さんじょうさねとみ)である。この2人、対照的すぎる2人だ。伊藤博文は、長州藩の貧乏な家の出であった。一方、三条実美は、貴族の中の貴族で名門の出身。伊藤は政治の能力は申し分ないとしても、元の身分があまりにも低い。いくら「四民平等」と言っても、そんな人を政治のリーダーにしてよいものか。まとまるのか。ましてや、天皇を中心とした朝廷が上に立つ明治政府である。結局は、三条が上に立つのではないか…。

そんな空気を打ち破った男がいる。彼の盟友、井上馨(いのうえかおる)である。「長州ファイブ」の1人。古くからの同志だ。

「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」

これで決まった。近代化には、外国からの情報をつかんで、咀嚼して、うまく取りこむことが不可欠である。正論だった。3度もの留学経験のある伊藤博文が、初代内閣総理大臣に就任した。以後、4回も総理大臣に就任した。

結果的に、この「内閣制度」が、近代の政治の原点の1つと言っても良いと思う。江戸幕府の頃は、大老や老中はいたにしても、政治のトップは何と言っても将軍であった。明治新政府ができた頃は、大久保利通などの力のある政治家が主導して政治を行っていた。それに対して内閣制度においては、それぞれのジャンルで専門家の大臣を置き、役割分担をして政治を行う。しかも新しい総理大臣が組閣すれば、(基本的には)平和のうちに交代していく。1人、もしくは少数が政治を行う仕組みから、集団で専門的に政治を行う仕組みへの改善。もちろん天皇が上にいて、軍隊や議会も力を持っていたけれども、複雑になっていく近代の政治状況に対応していくために、この内閣制度は必要不可欠だった。

彼はその後、憲法制定に着手する。1889年には「大日本帝国憲法」が発布され、1890年には第1回帝国議会が開催された。「イチハヤク作る帝国憲法」という覚え方とともに、この比較的早い段階でアジアにおいて近代憲法を備えられたのは、彼の功績が大である。その5年後、1894年には日清戦争が起こる。彼はその時、2度目の内閣総理大臣を務めていた。1895年には、下関条約に調印。そのあとの、三国干渉・日露戦争の流れの中でも、彼は常に政治の中心にいた。1900年には政党の立憲政友会を結成して、初代総裁を務めている。議会を中心とした、新しい政治の形も、ゆっくりだが徐々に軌道に乗せていった。

このような政治上の功績から、彼は「日本のビスマルク」と呼ばれた。ビスマルク。プロイセンの宰相で「鉄血宰相」とも呼ばれた、不撓不屈の政治家。彼自身も、ビスマルクになぞらえて呼ばれることに、誇りを持っていたであろう。

ところが一方で、彼には「箒(ほうき)」という異名もあった。「掃いて捨てるほどいる」という意味である。何が? …女性である。彼は、とほうもない数の女性を愛した。現代であれば、真っ先に「文春砲」に撃たれて政治的生命が終わっていたであろう。女性スキャンダルの宝庫、叩けばホコリがばんばん出る。しかしそんな彼にもポリシー?があって、「その地方で一番の芸者には手は出さない」ことを心掛けていたそうだ。一番の美人には、その地方の政治家がバックについていることが多い。手を出せば、彼らを敵に回す。だからこそ、二番手・三番手の芸人を相手に遊んでいたそうである。

政治の達人、第一人者でありながら、人の心理を深くとらえて、二番手・三番手の人にスポットを当てて深く愛でる。政治の力は「数」である、とする民主政治の力学にも通底する。

伊藤博文は、賛否両論が激しく巻き起こる政治の世界で、うまく物事をまとめ、うまく箒できれいに掃き清め、環境を整えて「周旋」する人であったように思われる。

復習:《1871~1900年の略年表》
『近代と憲法』:明治新政府が欧米諸国を手本に近代化を進めた時代
◆1871年 廃藩置県・岩倉使節団出発
◆1877年 西南戦争
◆1881年 明治14年の政変
◆1885年 伊藤博文 初代内閣総理大臣に就任
◆1889年 大日本帝国憲法発布
◆1890年 第1回帝国議会開催
◆1894年~ 日清戦争
◆1895年 下関条約
◆1900年 立憲政友会結成
◆(1904年~) 日露戦争
◆(1909年)伊藤博文 暗殺
◆(1910年)韓国併合

3、神様は毒舌家:1901年~1930年

1901年から1930年の30年は、幕末や明治維新、近代化といったこれまでの30年に比べると、多少マイナーなのかもしれない。いわゆる「大正デモクラシー」のあたりである。

1901年~1930年
『政党と議会』:政党による政治が普及し、議会政治が進展した時代

今回取り上げる犬養毅(いぬかいつよし)も、徳川慶喜・伊藤博文に比べると、マイナーではないだろうか。最後の将軍、初代内閣総理大臣といった、きらびやかな肩書はない。しかしそれでも彼が有名なのは、1932年の「五・一五事件」によって暗殺された総理大臣だからだ。

「話せばわかる」「問答無用」。審議はともかく、議会政治の申し子のような彼が、有無を言わせぬ暴力の軍隊に殺された! 以後、議会は徐々に力を失い、軍部が台頭した…。という一点だけで片づけるには、いささか乱暴な歴史の見方ではないだろうか。そもそも、犬養毅は議会でどのように活躍してきたのだろうか? 死んだ場面だけがスポットを浴びがちで、それまでの30年はなかなか取り上げられない。

犬養毅は岡山県の出身である。1855年の生まれだから、ペリー来航の2年ほど後に生まれた。20歳の頃に福沢諭吉の慶應義塾に入学。その後、新聞記者となり、西南戦争の従軍記事で名を上げた。1882年には大隈重信のつくった立憲改進党に入党。35歳の頃、1890年の第1回衆議院議員選挙で初当選した。私学の二大巨頭である、慶應の福沢、早稲田の大隈、両方に縁があり、しかも新聞記者であった。当然ながら、当時の政治に対して、批判的な眼をたっぷり持っていた。

彼は「憲政の神様」という呼び名でも知られている。42年間で18回連続当選。同じく「憲政の神様」と言われた、尾崎行雄の記録に次ぐ大記録である。しかし、ともすればこの呼び名が独り歩きして、「ああ、議会で大活躍した人だね」という断片的な理解に終わりがちだ。ならば、と考えたい。なぜ神様とまで呼ばれた人が、死んだところだけ有名になるのか?

それは当時がまだ、議会で大活躍する=政治の実権を握れる、という時代ではなかったからである。現在の政治状況とは、全く違う。そもそも、選挙権自体が、一定の税金を納めることのできる富裕層の男性だけに限られる制限選挙制度であった。普通選挙ではなかった。

いわゆる「政党政治」「議会政治」は、まだ確立されていなかった。「藩閥政治」と呼ばれる、長州藩や薩摩藩などの明治維新に功績のあった藩の出身者たちが、政治の世界で幅を利かせていた。1904年から始まった日露戦争、その当時の首相は桂太郎だ。ニコニコっと笑って肩をポンポン叩くことから、「ニコポン宰相」とも呼ばれた桂は、長州藩の山口県出身。同じく山口県出身の、陸軍を握っていた山縣有朋(やまがたありとも)と親しい。同じく山口県出身の伊藤博文は、後継者に西園寺公望(西園寺公望)という公家出身の政治家を推していた。この伊藤VS山縣のライバル関係が、桂VS西園寺の次世代にも引き継がれて、交互に政権を担当する「桂園時代」を迎える。元老と呼ばれた、明治政府を主導してきた実力者たちが政治を動かす「元老政治」とも呼ばれていた。1910年、韓国併合。1911年、関税自主権の回復(不平等条約の改正)。日露戦争後、日本が徐々に国力を高めていた頃である。

犬養は、この状況に、猛然とかみついた。

1913年、元老の指名により第3次桂太郎内閣ができた際、立憲国民党の犬養は、立憲政友会の尾崎行雄たちとともに、「第一次護憲運動」を起こしていた。「憲政擁護会」をつくり、内閣に不信任をつきつける。その際のスローガンは「閥族打破・憲政擁護」、要するに「一部の特定の人たちだけで政治を行うのはおかしい、ちゃんと憲法を守って政治を行うべし」ということである。

盟友の尾崎行雄は、議会でこのように発言したという(意訳)。

「(桂太郎たちは)常に口を開けば『私たちは忠誠に厚い、忠誠に厚いのは自分たちだけだ』と言うが、よく見れば、玉座の陰に隠れて政敵を狙撃しているだけではないか。天皇陛下の命令を弾丸の代わりにして、政敵を倒そうしているだけではないか」

「隠れるんじゃない、議会があるのだから、ちゃんと議論で戦え」と言われた桂太郎は、ぐうの音も出ない。議会での議論となれば、犬養や尾崎たちに分がある。そこで議会を解散させようとしたが、猛反対に遭う。日本各地でも暴動が起こる。大衆を味方につけた犬養たちは、ついに桂内閣を総辞職に追い込むことに成功した。世に言う「大正政変」である。

…ただしこの後、犬養や尾崎がただちに内閣総理大臣に就任する、とまでにはならなかった。まだまだ「閥族」「元老」の力は衰えていない。何人か総理大臣が変わる中で、1914年には第一次世界大戦開始、1917年にロシア革命、1918年にはシベリア出兵開始と、世界は激動に見舞われていた。国内でも米騒動が起きる。その後、「平民宰相」と呼ばれた原敬(はらたかし)が、大政党の立憲政友会を率いて1918年に総理大臣に就任した。これは「閥族」と攻撃された山縣有朋にうまく接近し、力を蓄えることができたからだと言われる。一方、犬養は閥族を敵とみなし、決して近寄らなかった。その差があらわれた、とも言える。

それに加えて彼には、致命的な欠点があった。

政敵を攻撃するあまりに、毒舌をふるいすぎるのである。「毒舌家」と呼ばれた。犬養の演説は理路整然、無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。しかし、いくら正しいことであっても、人前でボロクソに言われたら、その人は恨みを抱くだろう。事実、彼の周りは敵だらけだった。原敬のように、清濁併せのみ、仲間をたくさん集め、大政党を率いる、ということがなかなかできない。小さな政党の党首時代が長く、政治の場面では「永遠の野党」という時代がとても長かった。

1923年に起こった関東大震災の後、1924年には「第二次護憲運動」を起こし、1925年には普通選挙法と治安維持法がセットで成立したのだが、彼はあくまで脇役の一人、主役ではなかった。率いていた立憲国民党も、革新倶楽部と名を変えて、最後は大政党の立憲政友会へと吸収されていった。自分自身も、政界を引退した。

…え、政界を引退? 総理大臣になったのではなかったっけ?と思われるだろう。実は彼は、その晩年の3年間で復活し、思いがけず政治のリーダーとなり、そして散っていったのである。彼の引退を岡山の後援者たちは許さず、彼を「勝手に立候補させ」衆議院議員を続けさせた。立憲政友会の有力者たちは、党内のゴタゴタを収めるために、彼を「勝手にかつぎあげて」総裁にした。憲政の神様であれば、神輿にかつぐには申し分ない。

1930年、立憲民政党の濱口雄幸総理はロンドン海軍軍縮条約を進めていたが、犬養はこれにかみつく。軍隊は、天皇が統帥するものだ。政治がこれに口出しするのは、統帥権の干犯である…。いわゆる統帥権干犯問題である。彼は実は、軍縮には賛成だった。しかし、今や大政党の総裁である。小さな党の党首ではないのだ。総理大臣の椅子は目の前。力を得て自分の政治理念を実現するためにも、今は政府を攻撃すべきだ。「軍縮には賛成するが、内容には反対する」という老獪な理屈で、政府案に反対した。

濱口総理は暴漢に襲われて重傷を負う(のちに死去)。後をついだ第二次若槻礼次郎内閣も、1931年の満州事変を抑えきれずに、すぐ総辞職した。野党時代が長く、政敵を鋭く論破する力を持っていた犬養は、その力を十二分に発揮したと言える。1931年末には、ついに内閣総理大臣に就任した。もともと中国通であり、辛亥革命の中心人物である孫文を支援していたこともある。満州事変を言葉の力、つまり外交の力で解決しようとして、1932年に成立した満州国を承認しなかった。

そのような状況の中で、彼は五・一五事件によって暗殺される。

「統帥権干犯」を言い出し、いわば軍部を擁護した彼が、なぜ殺されなければならなかったのだろうか? 本来なら、満州事変当時の総理大臣、若槻礼次郎が殺される対象となるだろう。しかしすぐ総辞職してしまったため、行き場を失った怒りは、代わりに総理大臣になった犬養に向けられたとも言われている。…野党として政府を攻撃した理屈によって、軍部が勢いづき、回り回って自分の命を失わせることになった、とも言える。

「話せばわかる」の憲政の神様は、「問答無用」の軍部に殺された。しかし、彼は最後まで言葉の力を信じていた。死の床の中で、「今の(自分を撃った)若い者をもう一度ここに呼んでこい。よく話して事情を聞かせてやる」と言ったという。

これ以降、議会は冬の時代を迎え、軍部が表舞台に立つ時代になった。犬養毅は、議会の中で、議論という牙を磨き、たくさんの政敵を攻撃してきた。その彼が最後には、言葉ではなく、物言わぬ銃口によって殺されてしまったのは、まさに歴史の皮肉だと言えよう。

復習:《1901~1930年の略年表》
『政党と議会』:政党による政治が普及し、議会政治が進展した時代
(◆1890年 第1回衆議院議員選挙 犬養毅初当選)
◆1904年~ 日露戦争
◆1910年 韓国併合
◆1913年 第一次護憲運動、大正政変
◆1914年~ 第一次世界大戦
◆1917年 ロシア革命
◆1918年 シベリア出兵開始、米騒動、原敬が総理大臣に就任
◆1923年 関東大震災
◆1924年 第二次護憲運動
◆1925年 普通選挙法・治安維持法成立
◆1930年 ロンドン軍縮条約・統帥権干犯問題
(◆1931年 満州事変、犬養毅が総理大臣に就任)
(◆1932年 五・一五事件)

4、妖怪カミソーリ:1931年~1960年

1931年から1960年に至る30年間の中で、岸信介(きしのぶすけ)ほど賛否両論にまみれた政治家はいないだろう。その功績を讃える声が多い一方で、口を極めて罵り、否定する声もまた多い。1960年の「安保闘争」の混乱に加え、長く政権を担っている安倍晋三の祖父(岸信介の孫、と言った方がいいかもしれないが)という家系的なものも相まり、どうしても実態よりもイメージが先行となりやすい人物だ。だからこそ、あえて取り上げたい。

この30年、一言であらわすと次の通り。1945年を挟んで、戦前戦中と戦後に分けられる。

1931年~1960年
『戦争と平和』:第二次世界大戦を挟み大国の思惑に翻弄された時代

戦争の時代なのである。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。ましてや総力戦と言われた世界大戦の中で、なりふり構ってはいられない。敵のことは悪く言う。悪魔かのようにこき下ろす。諸悪の権化だとレッテルを貼る。そんなことが日常茶飯事に行われた時代だ。

事実、日本ではアメリカ合衆国とイギリスのことを「鬼畜米英」と呼んで、敵性言語として国内では英語の使用が禁じられた。野球ではストライクのことを「よし」と言った。それが戦後には一転、「ギブミーチョコレート」と子どもたちは米兵にお菓子をねだった。…そんな例でもわかるように、平和が当たり前の現代の日本的な感覚では、なかなか想像しづらいような状況である。そんな中、戦前・戦中・戦後ともに存在感を示した岸信介という人物は異彩を放つ。様々なレッテルが貼られたのも、また当然だろう。

一番よく知られているのは『昭和の妖怪』という異名だ。

妖怪。…どんなに豪胆な人物でも、お前は人間でなくて妖怪だ、と言われて、あまり良い心持ちはしないだろう。ふつう、戦前や戦中に活躍した人物は、戦後には精彩を失う。戦後に活躍した人物は、戦前や戦中では鳴かず飛ばずだ。ところが彼は、戦前は満州国の切れ者、戦中は商工大臣、戦後は内閣総理大臣、いずれも大活躍している。どんな状況におかれても、死なない。妖怪、と言われても仕方がないほどの策謀とバイタリティを持っていた。事実、頭の回転が異様に早い。彼と敵対する人物であっても『カミソリ岸』とも言われた彼の切れ味には、一目置かざるを得なかった。

さて、まずはこの時代に、日本が置かれた状況を概観しよう。

1929年にアメリカ発で起きた世界恐慌の波は、全世界に波及した。1931年、満州事変が起こり、1932年には満州国が成立、1933年に日本は国際連盟を脱退した。簡単に言えば、この不景気を打破するために独自路線を行きますよ、自分たちで経済圏を作っていきますよ、と宣言したようなものだ。

各国はどうだろう。アメリカ合衆国はフランクリン=ルーズベルトの下でニューディール政策を実施した。第一次世界大戦で衰えたとはいえ、イギリスとフランスはまだ世界に植民地をたくさん持っているので、ブロック経済という排他的な経済政策で乗り切ろうとした。一次戦で敗北し、植民地を失っていたドイツは、ナチスのヒトラーをリーダーとして軍備を拡張。ニューディール政策など比べ物にならないほど国家支出を増やし、不景気から脱出した。そう、あの「悪魔」ヒトラーがなぜ支持を集めていたのかというと、不景気を吹き飛ばすような経済回復を果たして「ドイツの救世主」とされたからだ。イタリアのムッソリーニも同じ。一方で、社会主義のソ連では、独裁者スターリンの下で5か年計画を実施して、国力を伸ばしていた。

金と人を集められる実力者に、権力が集中していった時代である。

こういう乱世では、議論ではなく実力がモノを言うのだ。お互いを尊重し、ルールを守って、寛容の精神で話し合って…という時代では、ない。実力行使で軍部が成立させた満州国も、その1つであった。1936年、経済官僚として満州に着任した岸信介は、この新しい国の中で辣腕を振るった。満州国には、「弐キ参スケ」と呼ばれた5人の実力者がいた。東条英機・星野直樹・鮎川義介・岸信介・松岡洋右。このうち、松岡洋右は国際連盟脱退の立役者、東条英機は後に内閣総理大臣となって太平洋戦争を始める人物である。この2人は戦後まもなく死亡したが、残りの3人は、戦後の政界・財界でも続けて活躍した。

国際連盟を脱退し、フリーハンドとなった日本が採った道は、中国に軍隊を進め、ドイツ・イタリアと同盟を結ぶ道だった。

1937年、日中戦争開始。1939年の第二次世界大戦開始を受けて、1940年、日独伊三国軍事同盟締結。共産党のソ連とは敵対していたが、1939年8月の独ソ不可侵条約を受けて、1941年4月には日ソ中立条約を結んだ。ところがそのわずか2か月後に、1941年6月には独ソ戦が開始される。世界の情勢は混沌として複雑怪奇であった。

アメリカ合衆国とは和平の道を探る交渉が進められていた。しかし、8月1日には石油禁輸措置等の経済制裁が発動され、11月26日にはコーデル=ハル国務長官からの「ハル・ノート」が突きつけられた。中国およびフランス領インドシナからの全面撤退、満州国の否認、三国軍事同盟の実質的廃棄などを含む要求である。すでに後にはひけないところまで踏み込んでしまった日本には、とても飲めない内容だ。10月に内閣総理大臣となった東条英機は、12月、アメリカ・イギリスに対して戦争を始める決意を固めた。真珠湾攻撃から始まる、太平洋戦争の開戦である。岸信介はこの時、東条内閣の商工大臣に就任していた。

後付けで考えれば、勝ち目のない戦争である。

中国を敵として戦っている中で、しかも持久戦を採られて終わりが見えない中で、アメリカ・イギリス(およびその同盟国)とも戦争を始めてしまったのだ。これだけでも挟み撃ちだ。同盟国であるドイツとイタリアは、徐々に追いつめられて降伏した。大戦末期には、何とソ連が中立条約を一方的に破棄して参戦してきた。原爆も投下された。結局、四面楚歌の中で、日本は無条件降伏することになる。1945年のことである。

…そう考えると、岸信介は「戦犯」として、戦後は出る幕がなさそうである。ところが、さすがはカミソリと呼ばれた男、先を見る目があった。1944年、戦況が徐々に不利になっていた時のこと。東条英機は内閣改造を行って乗り切ろうとしたが、岸は辞職要求を拒否したのである。軍隊に脅されたが、彼は屈しない。閣内不一致となり、東条内閣は倒れた。この「東条に反抗して倒閣した」という動かせない事実が功を奏し、戦後に戦犯として東京裁判を受けた彼は、不起訴となり無罪放免となったという。

GHQの占領下にあった日本も、1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれて1952年には独立。岸たち公職追放を受けていた者たちが政治活動を行い始めた。折りしも、1950年には朝鮮戦争が始まっている。アメリカ合衆国とソ連との間の「冷戦」の時代である。「逆コース」とも呼ばれる「反共政策」が採られており、戦前・戦中に大国と渡り合った経験のある彼は、日に日に存在感を増していった。

時の総理大臣は、自由党の吉田茂である。

日米安全保障条約を結び、米軍に安全保障を任せ、経済を発展させようとした吉田。岸は、それに反抗した。「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」こそ大事ではないのか! この三本柱を唱える彼を、吉田は自由党から除名する。そこで岸は、吉田の政敵である鳩山一郎と手を結び、日本民主党の結成に走った。その結果、吉田内閣は打倒され、1955年には自由党と日本民主党の保守合同が行われて自由民主党が誕生、いわゆる「55年体制」が始まった。岸は、自由民主党の初代幹事長。吉田茂の一派を「吉田学校」という。岸の実の弟である佐藤栄作もその一人である。岸は違う。「俺は岸学校の校長だ」と言ったという。鳩山一郎、石橋湛山の2人の内閣の後で、ついに彼は1957年、総理大臣に就任した。

「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と、彼は就任の記者会見で語った。三悪追放。意外に思われるかもしれないが、彼は社会福祉政策に力を入れた総理だ。国民が貧しくて、安心して働けなければ国力も伸びないことを、彼は満州国や商工大臣の時に身に沁みてわかっていたのだろう。「最低賃金制」「国民年金制度」「国民健康保険法(国民皆保険)」などの社会保障制度は、主に彼の内閣で導入されていった。これらは徐々に整備されていき、後の高度経済成長の基礎となった。

ただし、彼の一般的なイメージは、福祉政策に力を入れた総理、ではないだろう。「1960年、安保闘争で半ば強引に日米安全保障条約を改定して、退陣に追い込まれた」というものが多いと思われる。確かに、強引だった。国会をデモ隊が取り囲み、一触即発、革命でも起きそうな事態だった。デモ隊からは、口を極めて罵られ、人間性を否定され、攻撃された。ひ弱な人間ならば、メンタルをやられて、すぐにあきらめて政権を投げ出しただろう。しかし、彼はひるまない。生きるか死ぬかの戦争時、軍部とも互角に駆け引きしてきた彼にとって、この程度の危機は既に経験済みであったに違いない。

だが結果として、この安保闘争の責任を取り、彼は退陣した。

次の首班に池田勇人が指名された直後、彼は暴漢に襲われ、重傷を負う。しかし、彼は死ななかった。亡くなったのは、1987年、享年90歳。死ぬ前まで元気で、政界や財界の大きな影響力を持っていた。「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」と言ったという。先を見るカミソリの知力と、相手が権力者であってもひるまない胆力、それにどんな状況でも死なない妖怪のごとき体力と強運の人生は、今も賛否両論の中で渦巻いている。

復習:《1931~1960年の略年表》
『戦争と平和』:第二次世界大戦を挟み大国の思惑に翻弄された時代
(◆1929年 世界恐慌)
◆1931年 満州事変
◆1932年 満州国成立、五・一五事件
◆1933年 国際連盟を脱退
◆1936年 二・二六事件、岸信介 満州に渡る
◆1937年~ 日中戦争
◆1939年~ 第二次世界大戦
◆1940年 日独伊三国軍事同盟
◆1941年 日ソ中立条約・岸信介 商工大臣就任・太平洋戦争開戦
◆1944年 岸信介たちが東条に反抗して倒閣
◆1945年 ポツダム宣言を受諾して敗戦、岸信介 戦犯として逮捕
◆1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約
◆1955年~ 自由民主党結成・「55年体制」始まる
◆1957年 岸信介 総理大臣に就任
◆1960年 日米安全保障条約改定・岸信介退陣

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