白鳥のリュウガサキ_完成イラスト

「舞姫 テレプシコーラ」の水 ~鳥見桐人の漫画断面図7~

1、水

バレエダンサーはアスリートだ。

バレエのバの字も踊ったことがない俺だが、それくらいは分かる。小さい頃に、バレエを習っている友達がいた。男だ。野球やサッカーこそが王道だと信じて疑わない奴らが、囃し立てた。「男のくせにバレエかよ」。彼は黙っていた。黙って、体育の時間には、自称スラッガーやストライカーたちを圧倒していた。競走、体操、鉄棒。ダンス以外でもすべてにおいて、身体能力の差を見せつけていた。いつしか、彼を囃し立てる者はいなくなった。

踊るという行為は、とてもシンプルだ。己の身体を操る。身体の隅々まで操作できる自信がないと、プロのバレエダンサーにはなれない。そのため、彼ら彼女らは、ストイックなまでに自分の身体を磨き上げ、アスリート並みの運動量の練習を重ねる。外国では、先天的に優れた骨格や関節を持つものだけがプロを目指せるという。選ばれし者だけが目指すことができる。その狭い道は、時として残酷である。

このようなことを思ったのは、あるダイエット屋の看板を見たからである。

俺はダイエットに切羽詰まっている訳ではないが、健康にはなるべく気を遣おうとしている。さすがに齢を取ってくると、若い頃のように好き放題、何でも食べてよいと思うわけにはいかない。

その看板には、こう書かれていた。

毎朝、毎晩、一杯の水から気軽に始めるダイエット!

手軽さをアピールしているつもりだろうが、それならばこのダイエット屋に頼まずとも、自分で始められるように思う。入り口を広くして、色々なプランにひきこむのが狙いなのだろう。

俺は踵を返した。「水」「ダイエット」、このキーワードで、ある漫画のワンシーンを思い出したからだ。思い出すと、読みたくなった。

山岸凉子さんの「舞姫 テレプシコーラ」である。

2、舞姫 テレプシコーラ

少年誌でよく展開される単純明快な「少年漫画」に比べて、「少女漫画」は繊細で複雑な感情をつむぎだす名作が多い。山岸凉子さんはその世界で、いくつものヒット作を世の中に出してきた作家だ。

「日出処の天子」に代表される歴史もの、「妖精王」などのファンタジー、「アラベスク」に始まるバレエものなどが有名だが、彼女の通底にあるのは「ホラー」であるように思う。

13日の金曜日的な分かりやすい怖さではなく、じわじわくる怖さ。もし小さい頃に山岸凉子さんのホラー作品を読んだら、一生トラウマになるのではないかという衝撃。

「舞姫 テレプシコーラ」は、バレエを習う少女たちの物語だ。しかし、山岸凉子さんは、彼女たちに容赦ない運命を突きつける。じわじわくる恐怖。華やかな世界の裏にある、一種のホラーにも感じる衝撃的な展開は読者を惹きつけてやまないが、そのうちのある登場人物に、作者は「ダイエット」という名のホラーを用意した。

その登場人物は、太りやすい。

プロを目指すバレエダンサーにとって、太りやすいのは致命的である。おそらく脂肪太りではなく筋肉太りだろう。運動をすればするほど筋肉がついてしまう。そこで様々なダイエットを行うのだが、トイレで吐いたり、舞台で倒れたりと散々である。行きついたところが「水」のダイエット。大きなペットボトルに入った水を、がぶ飲みする。スポーツドリンクではない。ましてやコーラでもない。毎朝毎晩に一杯の水くらいなら良いが、ペットボトルの水を飲み干すのは相当きつい。

それを続ける。読者は「お願いだからやめて!」と思う。なぜそこまで苦しい思いをしてバレエをするのか。

しかし続けていく。泣きながら水を飲む。バレエをやっている人だから、周囲にはスタイルの良い、すらっと痩せている人ばかりだろう。なぜ自分ばかり太ってしまうのか。「正月太りしたんじゃないの?」。周囲の何気ない一言が、心を追いつめる。追いつめた先の果ては…。

…いつしか俺は、旧友が経営する漫画喫茶「てなもん屋」に来ていた。

3、涙と水

「よ、桐人。今日は何を読みに来たんだ?」

「テレプシコーラの水のダイエット」

「ほらよ」

相変わらず仕事が早いな。俺は旧友である店長から単行本を受け取ると、座って読み始めた。

…この作品に出てくる登場人物は、何かしらの問題を抱えている人が多い。生来の身体的な特徴。経済的な困窮。いじめ。怪我。そして「太りやすい体質」。やがて迎える衝撃的な展開。

第一部で物語はいったん幕を閉じるが、好評のため第二部も描かれた。あまりにも過酷な運命を強いた登場人物たちに、山岸さんはせめて報いたいと思って描いたのか、それともただ単に描きたかったのか。

その第二部では、「水のダイエット」の登場人物はほとんど出てこない。しかし、一コマだけ、力強い顔で宣言している。「やめます!」と。

その後、大学進学のために猛勉強している、という説明がなされる。第一部で彼女の行く末を案じていた読者は、それこそ胸をなでおろしたであろう。そう、バレエだけが人生じゃないんだ。プロのバレエダンサーになるには、努力だけでは到達できない、生まれ持った身体も必要だということを、彼女は痛いほどに悟ったのであろう。彼女はその運命に抗った。吐いて、倒れて、飲んで、それこそ七転八倒して戦ってきた。戦友の悲劇も見た。その上での「やめます!」を、誰が責めることができるだろうか?

目標を追い求めてひたすら努力する姿は、美しい。

しかしそれと同様に、自分を見つめ直して「ずっと追い求めてきたことをやめる」決断ができることも、同じくらい美しいことではないだろうか。

店長が近づいてきた。…奴は、ちょっとダイエットしたほうがいいな。

「ワンドリンクのご注文は? 水以外で」

俺は答えた。

「コーラ」

(つづく。テレプシコーラとは、ギリシア神話の舞踏の神だそうです)

4、これは実際に読むしかない!

いかがでしたでしょうか?

今回は山岸凉子さん(凉の字はさんずいではなくにすいとのこと)の名作「舞姫 テレプシコーラ」を取り上げました。バレエに詳しくない方でもすっと読める展開はさすがの一言。ネタバレし過ぎてしまうと、読む楽しみが半減してしまうので、登場人物の名前は出さずに書きました↓。

「日出処の天子」はこちら。聖徳太子(厩戸皇子)のお話↓。

「妖精王」はこちらから↓。

「アラベスク」もバレエを扱っています。テレプシコーラよりも前の作品ですので、こちらが先↓。

もし「目がキラキラだから…」という妙な理由で少女漫画を敬遠している男性読者がいましたら、おそらくこの世の半分以上の「漫画の楽しみ」を失っているように思います。この「舞姫 テレプシコーラ」から読み始めてみてはいかがでしょうか?

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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