言葉を生み出していくスタイルは
人と場合により、千差万別です。

松本 淳 さんがX(旧Twitter)にて
とても興味深い考察を
されておられましたので、
それを紹介しつつ、私も考えて
言葉にしてみよう、と思いました。

本記事は、言葉を生み出していく
スタイルの違い
についての考察です。

まず、松本さんのポストを
下記に引用してみましょう。

(ここから引用)

『「言葉を紡ぐ(つむぐ)」
というと、ちょっと詩的で
カッコいい感じがします。

が、なんとなく
「言葉を恣意的につなげていく」
というイメージを感じ、
自分のやり方とは違うなと
思ってしまいます。

ChatGPT君だと、まさに
「つむぐ」作業が得意なのかなと。
いくらでも勝手に
付け足していってくれるので。

自分の場合、いつも
苦労しながらですが
「言葉を彫り出す」ような
感覚でやってます。

言葉を思いつきで勝手に
つなげていくのではなく、
もやもやしたイメージやアイデアの
周辺を削ぎ取り、まさに
コア部分だけを慎重に、
慎重に掘り出していくような。

ちょっと表現が難しいですが、
共感頂ける人がいれば
とても嬉しいです。』

(引用終わり)

ここで俎上に取り上げられているのは、

◆『言葉を紡ぐ(つむぐ)』
◆『言葉を彫り出す(ほりだす)』


というスタイルの違いです。

◆『言葉を紡ぐ(つむぐ)』
→言葉を恣意的につなげていくイメージ
→例:ChatGPTなど

◆『言葉を彫り出す(ほりだす)』
→周辺を削ぎ取っていくイメージ
→コア部分だけを、慎重に掘り出す

前者は、私の中のイメージで恐縮ですが
「言葉の海」が広々とあって、
どんどんネットワークでつながって
無限増殖、連鎖反応的に
どこまでも広がっていくイメージです。
足し算や掛け算によって
「足していく」イメージ…。

後者は、これも私の頭の中では
「言葉の岩」があって、
仏師が「のみ」でカンカンと削りつつ、
余計なものを彫琢していって
石像の形にしていくイメージでした。
引き算や割り算によって
「減らしていく」イメージ…。

(あくまで松本さんのポストから
浮かんだ私のイメージです)

その上で、松本さんは
ChatGPTの例を挙げて、

「いくらでも勝手に付け足す」
「思いつきで勝手につなげていく」
という前者のやり方は、
「自分のやり方とは違う」と
述べられています。

※あくまで違いを示しているのであり、
批判をされているわけではありません。

このように対照的・対比的に
書かれているからこそ、
スタイルの違いが明確にわかる、
読み手は考えさせられる…
というわけですね!

それぞれ言葉の生み出し方の
スタイルは千差万別ですので、
ケースに応じて使い分けられるべき。

ただ、このご時世、
あまりにも便利な「ChatGPT君」が
世に出回っているため、
それを無批判に使うことに
少し警鐘を喚起する
ような意味合いが
あるのかな…と私は感じました。

さて、この松本さんのポストに対して
「となりの美穂さん」こと
砂押 美穂 さんがご返信されている。
こちらの文章も、引用紹介してみます。

(ここから引用)

『話し言葉でも、
恣意的につなげているように
感じる方がいます。

とても話し上手だなと感じる半面
どこかしっくり
こないことがあるのです。

掘り出すことは相当
集中力が必要ですし、
大変なことだと思います。

だからこそ伝わるだけでなく、
心に響く文章になるのでしょうね。
いつもありがとうございます✨』

(引用終わり)

『心理カウンセラー・美穂さんの
のんびり井戸端会議』
という書籍を出され、
繊細に言葉を選び、書いていらっしゃる
砂押さんのご返信です。

これまでのカウンセリングなどで
無数の「話し言葉」にも接して、
それに返答をされてきた砂押さん…。
このご返信からは、

◆『言葉を紡ぐ(つむぐ)』
→恣意的につなげている
→話し上手だな、とは感じる
→しかし、しっくりこないこともある

◆『言葉を彫り出す(ほりだす)』
→相当に集中力が必要
→とても大変なこと
→しかし、伝わるだけでなく心に響く

という対比が見て取れます。
ここから、あえてまとめてみましょう。

◆『言葉を紡ぐ(つむぐ)』
→どんどん増える
→どんどんつながる・つなげる
→濃度は薄まる
→とても便利で恣意的に生み出せる
→しかし、心に響かない危険性がある

◆『言葉を彫り出す(ほりだす)』
→どんどん減らす
→どんどん取捨選択する
→濃度は濃くなる
→とても濃密で心に響かせられる
→しかし、とても大変で労力がかかる

このように比べて書ける、
のではないでしょうか?

…考えてみれば、これは言葉を
「生み出す」時だけではなくて、
「飲み込む」時にも通じますよね。
よく「多読」(速読)と
「精読」(熟読)の違い
についても
言われたりします。

とにかくたくさんの言葉に触れる!
「多読」は、世界を広げます。
ですが、一つ一つの内容は
どうしても薄まってしまう…。

とにかく何度もじっくりかみしめる!
「精読」は、世界を深めます。
ですが、時間がかかり
数をそんなに重ねることができない…。

このような違いも含めて、意識して、
私も改めて言葉に
向かい合おう、と思った次第です。

最後に、まとめます。

本記事では松本さん、砂押さんの
Xでのポストとご返信を
(私の恣意的に)取り上げ、
言葉の生み出し方や飲み込み方の
スタイルの違いをまとめてみました。


さて、読者の皆様はどう考えますか?

どちらのスタイルが多いでしょうか?
それぞれのスタイルをケースに応じて
使い分けているでしょうか?

立て板に水に紡いでいく「落語」と、
十七文字へとそぎ落とす「俳句」
違いにも通じる、かもしれませんね。

◆『噺家の 練りに練られた 落ちつむぎ』
◆『彫琢の 数百万語が 十七に』

季語がなくて申し訳ありません。
拙句を二つ、最後に示して、
本記事を終わります。

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