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「迷惑」という言葉について、考えます。

文字通りとらえれば、迷い惑う、ですね。
この言葉、主語は、何でしょうか?

「自分が」迷い惑うのならば、
「自分がおろおろしている」、
文字だけ見れば、そんな意味になります。

ですが、通常の会話においては、迷惑とは
「はみだして自転車を置いて、迷惑だね!」
「また迷惑メールが来ている。不愉快だ!」
「あの人、迷惑なのがわからないのかな?」
などというように、
「誰かの行為によって、不利益をこうむっている」。
…そういう意味に使われることが、多い。


ここに、ちょっと、ずれがありませんか?

そもそも「自分が」「迷い惑う」だけならば、
自分自身のことですので、
そこまで「迷惑=他人の不利益」とは
言えないのではないでしょうか?

でも、実際の
現在の日本語での使われ方としては、
他人が(自分を含む他の人に)
「不利益を与える/不利益をこうむっている」
そんな意味でよく使われているのです。

私はここに、暗黙の了解的な、
「日本的な考え方」「ものの見方」が
隠れているように思います。
すなわち、
「迷い惑うことは、迷惑(不利益)!」
「自分が、迷わず惑わないことによって、
他人にも迷惑(不利益)をかけないことがいい!」
という考え方です。

もちろん、これをまるまる否定する
わけではないのですが、
「複数あるうちの一つの考え方」に過ぎない、
ということは、自覚しておいたほうがいい。

なぜなら、世の中は、世界は、
そういう考え方の人ばかりではない
からです。

それをはっきりさせるため、
他国の例を挙げて対照させましょう。

最近、よく、日本と対比させる形で、
インドの事例が紹介されることがあります。
読者の皆様も、以下のような話を
目にしたことがあるのではないでしょうか?

◆日本の子育て
「人に迷惑をかけることは、
しないようにしなさい」
◆インドの子育て
「あなたは人に迷惑をかけて
生きているのだから、
人のことも許してあげなさい」

…この話のおける「迷惑」とは、
「不利益」の意味で使われています。
迷惑をかける=不利益を与える
として、言い換えてみると…。

◆日本の子育て
「人に『不利益』を与えることは、
しないようにしなさい」
◆インドの子育て
「あなたは人に『不利益』を与えて
生きているのだから、
人のことも許してあげなさい」

うん、「他人に対して」不利益を
与えるか与えないかの話になり、
日本とインドの違いがくっきり、ですね。

日本式では、そもそも
相手に不利益を与えるような
行為はしてはならない、という考え方。
それに対して、
インド式では、そもそも
人間の存在自体が
相手に不利益を与えるようなものなのだから、
お互い様で寛容になりなさい、という考え方。

もちろん、どちらが良い悪いか、ではないです。

日本式の考え方が行き過ぎれば、
「同調圧力の弊害だッ!」になるでしょうし、
インド式の考え方が行き過ぎれば、
「開き直りの極致だッ!」になるでしょう。
他人のことを考え過ぎて、行動できない…。
自分のことを考え過ぎて、傍若無人にふるまう…。
どちらも「行き過ぎると」問題ですから。

さて、ここで、
「迷惑=他人への不利益」ではなく、
文字そのままの意味、
「迷惑=自分が迷い惑うこと」
という意味にて、言い換えてみましょうか。

◆日本の子育て
「自分が迷い惑うようなことは、
しないようにしなさい」
◆インドの子育て
「あなたは自分が迷い惑いながら
生きているのだから、
人が迷い惑うことも認めてあげなさい」

…どうですか、これ。
ちょっと「キャリア教育」っぽく
なってきませんか?!

日本式では「迷い惑う」ことが
そもそも間違いである、となる。
すなわち、「正しい」道というのがあり、
それに沿った道を、進んでいくべき。
たとえそれが赤信号であっても、
みんなで渡れば、怖くない。

逆にインド式では「迷い惑う」ことが
そもそも当たり前である、となる。
すなわち、人は誰しも迷い惑いながら
「自分なりの」道を探して
進んでいくものなのだ、ということになる。

このように、現在使われている
「迷惑=他人に不利益を与える」という
意味ではなく、
「迷惑=自分が迷い惑うこと」という
意味に、あえて置き換えてみた時、

日本とインドの子育ての対比のこのお話は、
また違う意味、キャリア教育の文脈にて
光が当たるように、私には思われるのです。


日本では長らく、
高度経済長期から安定成長期にかけて、
「決まったレールの上を歩く」
「終身雇用、一社専従」というキャリア観が
「正しい」として構築されてきた。
そんな傾向がありますよね。
「転職」「起業」「副業」などは、
アウトロー、はぐれカラス、
裏切者、変わり者、のような
意味合いでとらえられてきた。

すなわち日本式の子育て、
「自分が迷い惑うようなことは、
しないようにしなさい」、言い換えれば、
「一度、その仕事に就いたのならば
迷わずにそこで頑張りなさい」
という考え。

ところが、今、この時代はどうでしょう?
「決まったレールがない」
「終身雇用の崩壊、一社専従は危険」
そんな時代と言えます。まさしく乱世。

すなわちインド式の
「あなたは自分が迷い惑いながら
生きているのだから、
人が迷い惑うことも認めてあげなさい」

のほうが、しっくりくる時代なのです。

「正しい道を迷わずに進むことがいい」から
「迷い惑うことがむしろ当たり前!」という
キャリア観への変遷…。

そういう時代の過渡期に私たちは生きていると、
私には思われるのです。

以上、本記事では
『迷惑』という言葉の深掘りから、
その二つの意味の意味を浮き彫りにして、
日本とインドの子育ての話の中の
「迷惑」という言葉を
二つの意味に置き換えて、考えてみました。

さて、読者の皆様は、いかがでしょうか?
もちろん「やり過ぎは良くない」という
前提の上で、

「他人に」不利益を与えてしまうこと
肯定しますか、否定しますか?
「他人に」自分が不利益を与えられること
寛容ですか、それとも不寛容ですか?

「自分が」迷い惑うこと
肯定しますか、否定しますか?
「他人が」迷い惑うこと
寛容ですか、それとも不寛容ですか?

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