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「世界一短い手紙(やり取り)」をご存知ですか?

1862年のこと、ある男が海外旅行先から
出版社に電報を送りました。
そこにはたった一文字。

『?』

出版社は、返信を送ります。
同じく、たった一文字で…。

『!』

なんだか禅問答のようなやり取りですね。
1862年、日本史で言えば
「生麦事件」が起こった幕末の頃。
欧米ではすでに電報が使われていました。

「…で、どんな意味なんでしょう?」

はい、送った男は
次のような意味で送ったそうです。

『私の本は売れていますか?』

出版社はこう返しました。

『爆売れしてますよ!』

この「世界一短いやり取り」は
ギネスブックにも載っています。
この「売れすぎちゃって困るの」状態の
本こそ『Les Misérables』という本でした。

レ・ミゼラブル。

後年、日本語に訳されたのは
『ああ無情』という本です。

本記事では、この本が
できた経緯を紹介しつつ、作者である
ヴィクトル・ユーゴーを紹介します。

ヴィクトル・ユーゴーは
1802年に生まれ、1885年に死去する。
その八十年強の生涯の中で
たくさんの作品を生み出した大作家です。

パリで死去した際に「国葬」され、
パンテオンに「文豪」として
埋葬されたほどの凄い人!

「そんなに凄い人なら、
さぞやきらびやかな生涯を
送ったんでしょうね!」

いや、それがまたこの人の人生が
波乱万丈、の代名詞のようなもので。
ああ無情、という感じなのです。

そもそも彼が生きた時代のフランスは
しっちゃかめっちゃか。
何が正しくて何が悪かがころころ変わる、
ジェットコースターのような時代でした。

◆1789年:フランス革命
◆1802年:ユーゴーが生まれる
◆1804年:ナポレオンが皇帝になる
◆1815年:ワーテルローの戦い(ナポレオン没落)
(王政復古)
◆1830年:七月革命
◆1848年:二月革命
(ナポレオン三世のクーデター)
◆1871年:フランスがプロイセンに敗れる
◆1885年:ユーゴー死去

革命と政変のオンパレード。
今日の権力者が明日の断頭台。
やらなきゃやられる。
文字通り、ああ無情、の世界。

ユーゴーはこの時代に真正面から取り組み、
自分も政治活動を行い、
詩をつくり、小説を書き、
このわけのわからない現状をひたすら
自分なりに文字にして表現していった…。

だからこそ「文豪」として
名を馳せた、とも言われます。

1802年、フランス東部の生まれ。
父親は狂的なナポレオン主義者。
母親は狂的な王党派。
革命家と保守派の両親の間に生まれました。

生後六週間でマルセイユに転居。
その後もコルシカ島、エルバ島、
パリ、ナポリ、マドリードと、
フランスどころかヨーロッパ中を
転々と引っ越しします。
父親は軍人でした。出張が多い。
彼は母親とともに引っ越し人生。

1812年、10歳の頃にパリに戻る。
父親はナポレオンの没落とともに
一軍人の地位に落ちていました。
息子ユーゴーを軍人にしたかったのですが、
ユーゴーはこう言った。

『シャトーブリアンになるのでなければ、
何にもなりたくない!』

…ここで言うシャトーブリアンとは
牛肉のヒレ肉じゃないですよ。
小説家のシャトーブリアンのこと。
(そもそも小説家のシャトーブリアンの
コックさんが肉料理を編み出してから
牛肉のことを指すようになりました)

もう、子どもの頃から
小説家、文学者になることを
夢見ていたんですね。

小説家シャトーブリアンは貴族の出。
フランス革命に全力で反抗、
亡命貴族軍に加わって戦った
「戦う文学者」でもあります。
ユーゴー少年、彼に、あこがれた。

17歳で詩のコンクールで入賞。
1822年、その文学の才能から
国王から年金をもらえるようになる。
当時は「王政復古」で
国王による政治が復活していました。
「ロマン主義」の旗手として
順風満帆の人生だったんです。

1830年には『エルナニ』という劇を上演。

ただ、この作品、あまりに
時代を先取りし過ぎた内容だった。
古い文学(古典派)と
新しい文学(ロマン派)がぶつかった。
開幕前から小競り合いがはじまり、
劇が始まると一気に暴動に発展しました。
人呼んで「エルナニ合戦」です。

このエルナニ合戦によって、ユーゴーは
「何を得るか」と言いますと、
「ロマン派」を世界文学の主流に
することに成功したのです。
新しい芸術は、常に戦場から生まれる。

…ただ、好事魔多し、と言いますか、
フランスの情勢、ころころ変わっていきます。

1830年、七学革命。
1848年、二月革命。

1848年の革命においてユーゴーは、
ルイ・ナポレオンという男を支持しました。
後の「ナポレオン三世」です。
しかしこの男、政権を取ると
1851年にクーデターを起こして皇帝になり、
独裁政治を行っていく…。

ユーゴーも命を狙われます。逃げる。

フランスから脱出、ベルギーに。
さらにイギリスのジャージー島、
ガーンジー島へと逃げる!

何と19年間にも及ぶ「亡命生活」を
余儀なくされてしまう。

ああ、無情。
そうです、この島にいる中で、
『レ・ミゼラブル』を書き上げるのです。

1862年、この大作を書き上げると、
ユーゴーは海外旅行に出かけます。
しかし、売れ行きが心配でならない。
彼は「?」という電報を送ります。
出版社から「!」という返信が届く。

…この本が売れなかった場合、
彼は筆を折る決意をしていた。
しかしながら、発売当初から
本屋には長蛇の列、一般人だけではなく、
貧しい人々も本代を仲間で集め合って買って、
回し読みした、と言われます。

じきに1871年、ナポレオン三世は
鉄血宰相ビスマルク率いる
プロイセンに敗れ、捕虜になってしまう。
ユーゴーは、帰国します。
フランスでは、英雄として迎えられました。
上がって下がって、また上がる。
まさにジェットコースター人生でした。

1885年、パリにて死去。

不朽の名作でフランス文学の名を押し上げた
彼は、文豪として国葬されるのでした。

最後にまとめます。

本記事では『レ・ミゼラブル』
(ああ無情)について触れつつ、
ユーゴーの生涯を紹介しました。

…ちなみに、1882年から1883年にかけて、
はるばる彼に会いにきた日本人もいます。
板垣退助、という男です。
ユーゴーの名声は、極東から来た男の
耳にも入っていた、ということでしょうか。

パンを盗んだだけで牢屋にぶちこまれ、
「19年間」も服役していた男のお話。

まさに波乱万丈、ロマンの塊です。
ぜひ、機会があればどうぞ。

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