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ダイバーシティと聞くと思い浮かぶ顔があります。

手塚治虫さんの漫画『ブッダ』に出てくる
「ダイバダッタ」というキャラです。

ただの言葉遊び、
「ダイバ」からの連想じゃないか!と
その都度、自分につっこみを入れるのですが、
どうしてどうして、ダイバーシティについて
世の中に広く問いかけるようなキャラですので、

作中の彼について紹介しつつ、
書いてみたい、と思います。
本記事は、LinkedIn News編集部(日本)
のお題にのっかって書いたものです。

「ダイバダッタ」は、簡単に言えば、
主人公「ブッダ」(シッダールタ)が
つくった教団を乗っ取ろうとする男。

しまいには、自分の爪に毒を塗って
ブッダを殺そうとするのですが、
失敗し、自分が毒にやられて、死にます。

…このキャラ、ブッダが好きで好きで
たまらないんですよ。

しかし、その想いは実らない。

自分こそがブッダの作った
教団の後継者だ!と自負しているのに、
ブッダは彼を認めてくれない。
別の後継者候補を(彼自身の
視点から言えば勝手に)指名する。

愛が余って、憎さ百倍…!!

ブッダに反抗、反旗を掲げ、
最後には非業の死を遂げてしまう。
ものすごく人間らしく、
ものすごく悲しいキャラなのです。

…今どきの言葉で言えば
「ヤンデレ」でしょうか?

これは「ツンデレ」からの派生語。
「病み」と「デレ」の合成語です。
「独占したいのに満たされない」。
そのために病的な行動に出てしまう…。

『ブッダ』が連載開始したのは
1972年のことですから、
今から何十年以上も前に
手塚治虫さんは「ヤンデレ」の
典型例を漫画で表現し、
世に出していったことになります。
(さすがは「漫画の神様」…!)

さて、彼は、ブッダの教団を
改革しようとして、以下のような
五つの戒律を教団内に広めようとした、
と言われております。

◆人里離れた森林に住む
◆托鉢の際には家に入らずに外にいる
◆ぼろぼろの服を着る
◆木の下で瞑想をする
◆魚肉・乳酪・塩は食べない

要は「俗世」と交わらず、
「清貧」をつらぬき、
「美容」「美食」などに
溺れてはならない、ということです。

…裏を返せば、当時の教団自体、
そこまでガチガチの戒律が
あったわけではないんでしょうね。

そこには「多様性」があった。

だからこそ、ダイバダッタは
厳しい決まりを作り、引き締めようとする。
しかし、彼の企みは、否定される。

ここから
ダイバーシティにからめて書きますと、

ダイバダッタは「多様性」を否定することで、
自分自身が否定されてしまうのです。
…これは、なかなかに皮肉に満ちた
展開の漫画だとは思いませんか?

転じて、この世の中を見渡せば、
大なり小なり、手塚さんが描いたような
「ダイバダッタ」的な人がいますよね。

◆「〇〇はすべきではない!」
◆「〇〇は排除せよ!」
◆「〇〇は絶対に認められない!」

これは、多様性の否定、です。
自らの信じるところを正当化し、
純粋化、分化、排撃化を、狙う。

自分の信じるものとは異なるような
「許せないこと」は認めずに、
自らの主張に賛同した者たち「だけ」で
世界を築こうとする…。

しかし、それが「行き過ぎれば」
「一線を越えてしまえば」
自らの爪に塗った毒で、
自らの命を失うことも、あるかもしれない。

…誤解を招くと申し訳ないので書きますが、
私はもちろん、自分の考えを表明して、
仲間を増やすこと、そのものを
否定したいわけではありません。

人間は千差万別です。
好き嫌いが、必ずある。
合う合わないも、出てくる。
ましてや人間の集団においては。

だからこそ、できるだけ自分と
近い考え、価値観を持つ人を集めたい、
「派閥」を作っていきたい、
そういう気持ちは、よくわかるんです。
私にも、そういう気持ちが多分にあります。

ですが、だからこそ。

行き過ぎは、いけない。
病んでは、いけない。

多様な考えをただ「排撃」するのではなく、
多様な考えをまず「理解」する姿勢こそが
前提としては必要なのではないでしょうか?
その上で、どうしても自分と
合わないのなら、「住み分ける」など、
お互いの個性が生かせる方策を、考える。

毒の爪で、命まで奪おうとしては、いけない。

その考えがどこから来ているのか?
自分の考えとはどう違うのか?
自分とは異なる考えは「悪い」のか?
…そもそも自分の考えは「良い」なのか?
それとも「酔い」に過ぎないのか?

そういうことをまず考えていくべき、
ではないでしょうか?

最後に、まとめます。

本記事では、手塚治虫さんが
漫画『ブッダ』の中で描いた
『ダイバダッタ』というキャラを紹介しつつ、
「ダイバーシティ」について書きました。

※蛇足の補足ですが、本記事は
あくまで漫画『ブッダ』の中のキャラ、
ダイバダッタを題材にして書いております。
彼の存在や行動には様々な解釈があり、
『ブッダ』ではかなり改変されています。
手塚さん自身も
『ダイバダッタ(デーヴァダッタ)は
もっとも極端な物語の改変を行い、
そのために正しい仏典が
ゆがめられたのではないか
と悔やんでいる』とわざわざ書いているほど。
作中では「マキャベリズムに染まった
現代青年的な描き方」をされていますが、
実際は上流階級出身で、ブッダのいとこです。

漫画というものは、史実と創作が入り乱れ、
取捨選択してトリミングしてコマ割りして
誇張して表現されるもの、ということを
差し引いてお考えいただければ、と思います。

…ただ、逆説ですが、だからこそ、

手塚さんがデーヴァダッタを下敷きにして
改変して生み出した「ダイバダッタ」という
(極端過ぎる)キャラは、

何十年、いや、実際の彼が生きた時から
考えると、何千年の時を越えて、

私たちに「ダイバーシティ」について
考えさせる一つの思考材料に
なるのではないか、と思います。

読者の皆様は、どう考えますか?

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