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サザンの『真夏の果実』は有名ですが、
藤原真夏(ふじわらのまなつ)という人を
知っている方は少ないのでは?

名前が真夏。「まなつ」です。
名前からしてアツいじゃないですか!
774年~830年、平安時代初期の人。

ちなみに弟の名前は、冬嗣、ふゆつぐです。

そのまた弟は、秋継、桜麻呂、などなど。
夏、冬、秋、桜…、と、子どもに四季とりどりの
名前をつけた
彼らの父は、藤原内麻呂。
内麻呂は、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の
三人の天皇に仕えた、藤原氏の大物でした。

本記事では、彼の息子のうちの二人、
「真夏と冬嗣の兄弟」について、書きます。

◆文中、わかりやすいように
「〇〇天皇(上皇)」と表記しています。
実際には〇〇天皇は、死後の呼び名です。

…桓武天皇、と言えば
794年、ナクヨうぐいすの平安京に
遷都した天皇、ですよね。
以来「平安京」→「京都」、
日本の「都」になったことを考えると、
桓武天皇は日本史に大きな影響を与えた一人。

とはいえ、この桓武天皇、
けっこうなワンマンぶり、独裁者で、
彼に仕えた藤原内麻呂たちは、苦労します。

781年に即位してすぐ、
784年に長岡京に遷都。そのわずか10年後、
794年に平安京に遷都…。
806年に70歳で亡くなるまでに、
良くも悪くも親政を行い、色々な施策を行う。

藤原内麻呂も、その子どもたちも、
それを手伝っていたのですが…。

その桓武天皇の死から四年後、810年。
「薬子の変」(くすこのへん)が起きます。
これがまたかなりの大事件。
一歩間違えば「平安京」が「京都」では
なくなるところまでいっていたかも。

桓武天皇の死後、平城天皇が位を継ぎます。
しかしわずか三年後、嵯峨天皇に譲位します。
自分が発病したのを「祟り」だと考え、
その災いを避けるため、だそうです。

しかしこの平城上皇、旧都の平城京、
つまり奈良に戻り「上皇」として
嵯峨天皇とは別の政治を行おうと画策するんです。

嵯峨天皇の平安京 VS 平城上皇の平城京!
今で言うなら、京都 VS 奈良!


この対立を煽ったのが
薬子(くすこ)だ、と言われております。
だから、薬子の変。

藤原薬子。
平城天皇(上皇)の寵愛を受けた女性。

…まだ桓武天皇の時代の頃のお話です。
薬子とその夫は、自分たちの長女を、
桓武天皇の皇子(後の平城天皇)にめあわせ、
妃にしようとしました。
ですが長女は、まだ幼い。
宮中のしきたりにも慣れずに心細かろうと、
薬子の夫は自分の妻、薬子を
長女に同行させます。

これが失敗。

なんとこの時、皇子(後の平城天皇)は、
長女ではなく、母の薬子のほうをお気に召され、
そのまま寵愛を受けるようになった
んです。

お昼のメロドラマもかくやと思われる、
すごい展開。
夫や子どもの前で、
妻で母親の薬子のほうが皇子の寵愛を受ける…。

桓武天皇は激怒しました(そりゃそうです)。
皇子に薬子との関係を断つように命じ、
薬子には夫のところに帰るように言ったそうです。

…その桓武天皇が亡くなった後、
藤原薬子は、まだ寵愛を厚く受けており、
平城「上皇」の近くにいました。
この彼女が、兄である藤原仲成とともに
平城上皇をたきつけ、
都を平城京に戻すように仕向けたと言われます。

奈良と京都に、二つの朝廷。
『二所朝廷』と言われる対立の開始です。
まさに朝廷、まっぷたつ状態!

その頃、藤原真夏は、平城上皇の平城京に、
藤原冬嗣は、嵯峨天皇の平安京にいました。
この兄弟も、まっぷたつ状態、です。

ここで天皇VS上皇、天下分け目の大合戦…
が起きていたら大変だったのですが、
嵯峨天皇とその側近たちの
素早い対応により、変はすぐに鎮められました。

坂上田村麻呂、藤原冬嗣らを平城京に派遣し、
油断させて状況を探らせる。その裏で、
元凶の藤原仲成を逮捕し、薬子の官位剝奪を宣言。
上皇側の戦力を、少しずつそいでいくのです。

平城上皇、怒ります。
上皇自ら東に向かい、挙兵しようとしますが、
嵯峨天皇側の兵士を見て、とてもかなわないと諦め、
平城京に戻って剃髪、出家しました。降参です。

兄の藤原仲成は死刑、妹の薬子は服毒自殺。
…これが「薬子の変」の結末でした。

※最近は研究が進み、「薬子の変」と呼ばれるのは
薬子だけが事件の張本人であるかのように
思わせるのが目的の呼び方であるとして、
「平城太上天皇の変」と呼ばれることもあります。

…さて、真夏と冬嗣の兄弟はどうなったのか?

真夏は薬子の変に連座したとして、左遷。
冬嗣は薬子の変を鎮圧したとして、昇進。
兄弟で、その後の運命が分かれてしまった。

弟の冬嗣は、昇進に昇進を重ね、
藤原一族の中での第一人者にもなり、
左大臣という高位にまで上り詰めます。

一方、兄の真夏は、この左遷が響いたのか、
都に戻ってきた後も、死ぬまで
弟の官位を上回ることはありませんでした。

と、こう書くと、兄と弟の仲が
悪かったかのように感じますが、

実は、そうではなかった。
もちろん出世のライバル同士ではありましたが、
お互いを認め合う仲だったと言われています。

…そうですね、今風に例えれば、
「宇宙兄弟」ならぬ「宮中兄弟」でしょうか?
各々の異なったカラーで、立場で、力を尽くす。
長男の真夏、次男の冬嗣。
責任感の強い長男、自由気ままな次男。
アツい長男、クールな次男。

この薬子の変により上皇の権力は弱まり、
藤原氏(藤原北家)の繁栄の基礎が築かれます。
ちなみに仲成と薬子は同じ藤原氏でも
「藤原式家」という家の出。
薬子の変により、藤原式家ではなく
藤原北家のほうが強くなった、と言われます。

一族の、家族の繁栄のために、
彼らはそれぞれの立場で力を尽くした。
その甲斐あって、冬嗣の子どもの藤原良房は
皇族以外の人臣として初めて、
「摂政」にまで上りつめることができました。

まとめます。

真夏と冬嗣。夏と冬。対照的な二人。
でも彼らは「家の発展」にともに力を尽くした。
一方、仲成と薬子。この兄と妹は
「朝廷を分断」させ、非業の死を遂げた。

真夏は、音楽の才能がとても豊かだったそうです。
内心、かなりアツいパッションを持った
男であったように思われます。

ですが、弟に出世を抜かされても決して腐らず、
出家した平城上皇と朝廷の仲を取り持って、
再び争いが起きないよう、頑張ったそうです。

読者の皆様の仕事の中でも、

権力争いに巻き込まれてしまったり、
昇進や売上で同僚に後れをとったり、
そんなこともあるかと思います。

ですが、真夏のように決して腐らず、

自分の得意を生かし、やれることをやる。
協調し、協力する。

そういった姿勢が大事なのではないでしょうか。
そうしてこそ、豊かな果実を
みんなで味わえるのではないでしょうか?

このあたりの歴史に興味が出てきた方は、
永井路子さんの小説『王朝序曲』をぜひ↓

…ぜひ、藤原真夏がこの世に生まれ変わったら、
冬嗣と一緒にカラオケに行って、
『真夏の果実』を歌ってもらいたい
ですね(笑)。

◆本記事では「平安時代の初期」
「藤原氏の隆盛」を書きましたが、
「平安時代の中~後期」
「藤原氏の衰退」のほうはこちらの記事を。
『藤原信長のストライキ』

合わせてセットで、ぜひ。

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