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「私の文章、オリジナリティ満載!」
と思ったときほど、一歩引いて見るべし。

なぜなら自分のオリジナルとして
考え出したものは、どこかで同時に
他の十人くらいが同じことを
考えているかもしれない
から…。

例えば「電話の発明者」
グラハム・ベルの話。
実は彼とほぼ同時(同じ日)に
イライシャ・グレイという人物が
特許を申請していたそうだ。
「ベルとグレイの電話特許論争」。
ほとんどタッチの差だったそうだ。

新しい発明や発見は、
同時にどこかで誰かが
考えているかもしれない、のだ。

…ここに「コピペ」「盗作」的な
問題もからむ。
科学技術上の発見、ではなく
「文章」だと、特にその問題は
難しくなってくる。

というのも近年では
文章の多くはデジタル上に存在し
容易に「コピペ」ができるからだ

(noteやLinkedInの投稿などもそうですね)。

だからこそ「引用元の明示」という
作法が欠かせないのだが、
さらに難しいのは
「自分のオリジナルと
思って書いても、似たようなことを
どこかの誰かが書いている」という問題。
本人は知らないけど、似ている。

…これは、もう、
そういうものなんだと思うしかない。
だって、知らないんだから。

というのは、
「こんなことを書いても
同じようなことを書いている人は
いっぱいいるよな…」と
自分でブレーキをかけてしまい
文章を書かなくなる人が
見えないけど無数にいる
ように思われるから。

…それは、気にしすぎなくても
良いのではないでしょうか。

もしその文章が
「自身の考えの結果として
生まれた文章」ならば、
という条件付き
ではあるが、

同じようなことを書いても、
いいんじゃないですか?

なぜなら自身の考えの結果であれば、
その文章には必ず、
書いた人なりの表現、
オリジナリティが現れるから。

ここが、ただのコピペや盗作と異なる点。
コピペや盗作の場合は、
「自分自身の考え」をすっ飛ばし、
文章だけを「丸写し」する。
自分自身の考えの帰結では、ない。

書き初めに、共時性は、
つきものなのだ。

印刷技術が普及していなかった昔。
言語の学習は
「写本」から始まったという。
かの福沢諭吉が学んだ「適塾」でも
オランダ語のテキストは1冊のみ。
学生はまずそのテキストを
丸ごと書き写すことから始めたという。
では、みんながみんな同じような学生に
なったかというと、それはない。
福沢諭吉、大村益次郎、高峰譲吉…。
適塾の卒塾生は、多士済々である。

最初は誰だって
どこかの文章の「真似」から始める。
自分自身の文章だ、と言っても
どことなく誰かの文章に「似ている」。
それを恐れず、書き重ねるうちに、
どことなく人とは違う
「自分の味」が出てくるものだ。
「守・破・離」の精神。
守り、破った上でのオリジナリティ、
ではないだろうか。

ここで読者の皆さんに聞きたい。
私の投稿に「いなお味」は
ついているだろうか?
(自分ではなかなか分かりません)

皆さんの投稿には
自分の味はついているだろうか?

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