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徳川家康が天下を取った「関ケ原の戦い」
1600年、この勝利により事実上、
「天下人」となった家康は、
その三年後の1603年には江戸幕府を作ります。

豊臣側は、その家康の勢威に押されます。
その十何年後の「大坂の陣」によって、
滅亡してしまうのです。

…というのが、歴史の教科書的な
認識ではないでしょうか。
ですが、この「関ケ原の戦い」、
本当に天下分け目の戦いだったのか?


後の歴史から見れば、もちろんそうでしょう。
しかし、その当時の人々、状況から言えば、
この一つの戦いに勝ったその当時では、
即、徳川家康が天下人!とも言えなかったのでは。

本記事では、そのあたりを書いてみます。

東軍を率いる徳川家康が、
西軍を率いる石田三成たちに勝った…。
一日のうちに大勝利…。

うん、いかにも「天下分け目の戦い」ですね。

ただ、一つ誤解されがちなこととして、
西軍の総大将は石田三成では「ない」、
という問題があります。

三成は、西軍の首脳陣の一人です。しかし、
総大将では、ありません。
西軍の総大将は、当時、大坂城にいました。

毛利輝元です。

当然、総大将がまだ残っている以上、
東西の決着はついていないはず。
つまり、関ケ原の戦いには負けたものの、
西軍全部が負けた、とは言えないのです。

ましてや天下の名城、大坂城。

「豊臣秀頼」や「淀君」もいます。
無傷の二万もの兵も残っています。
ここに籠城して、徳川家康たちを迎え撃てば、
まだどう転ぶかはわからなかったはず
なんです。

ところがこの輝元、残念なことに、
家康の謀略にころりと手なずけられ、
大坂城を退去し、自国に帰ってしまう…。
その意味では西軍の「敗戦」には、
「総大将」である輝元にも、
大きな責任があるようにも思えます。

そもそもですね、大坂城があるのですから、
石田三成も無理して
関ケ原でガチで戦わなくても良かった
んです。

自分の持ち城、佐和山城も、近くにあった。
のらりくらりと東軍を大坂城に引き寄せて、
補給が伸び切ったところで包囲する策もできた。
何も関ケ原で全力で戦わなくても、
命さえあれば、
いくらでも挽回の機会はあったはず。

それが、憎き家康を戦場で前にして、
カーッと熱くなって
「ここが勝負だ!」と見誤ってしまい、
味方の大半がやられるまで戦ってしまった…。

引き際を知らない、大局的に戦えない。
そこは「武将」ではなく「有能な官僚」だった
石田三成の限界
だったのかもしれません。

もう少し、言うのであれば、
九州地方にも、反徳川家康の軍がいました。

豊臣秀吉の軍師と呼ばれた黒田官兵衛(如水)!
当時、熊本で謹慎していた加藤清正!

天下に名高いこの二人と「反徳川」の名のもとに
うまく連携をとることもできたはず、なんです。

関ケ原、大坂城、九州…。
勝負所は、実は三つ、あった。
それを最初の関ケ原でガツンとやられて、
あれよあれよと徳川家の天下になってしまった…。

これは、西軍の不手際、というよりも
そのように事態を進めていった
家康の謀略の勝利、とも言えます。

家康は、西軍がその力を
「分散」させていることを知り抜いていました。
だからこそ「関ケ原の戦い」の構図を
わざわざ「作り上げた」
のです。

もう少し家康本軍の到着は遅くなるはず。
まだ進撃してこないだろう。
その三成たちの予想を逆手にとって、
岐阜のあたりに着陣すると、
まっすぐに「大坂城」に向かうと見せかけたんです。
驚いた三成たちは、不十分な備えで
関ケ原で「迎え撃つ」ことを決定しました。

また、よく言われるように、戦前に
調略の手紙をガンガン送り、
西軍の内部分裂を促したのも、家康です。

その結果、毛利軍は日和見を決め込み、
小早川軍は東軍に寝返ってしまいます。
もともと豊臣家恩顧の武将たち、
福島正則たちは、三成憎しの感情から、
こともあろうに東軍の最先鋒を務めています。
九州の黒田や加藤も、決して
三成の下風に立とうとは思っていません
(ちなみに、家康の手先となって
裏切り工作をしまくっていたのは、
黒田官兵衛の子、黒田長政でした)。

そう、三成としては、
頭ではわかっていても、

大坂城や九州で決戦するところまでは
持ち込めなかった
んだろう、と思います。
裏切者が出る危険性を考えると、
関ケ原で止めるしかなかった、と思い込んだ…。

ましてや三成、この時、
腹痛に下痢に睡眠不足、
コンディションが最悪だったと言われています。
人間、どんな切れ者であっても、
体調が悪いと、判断力がにぶりますよね。
そんな中で彼は、
西軍にとって、最悪の選択をしてしまったんです
(一方の家康、年齢こそかなり上ですが、
体調万全で戦いに臨んだと言われています)。

…もしかしたら家康は、
そこまで見越して「関ケ原の戦い」の構図を
作り上げたのかもしれません。
そう、関ケ原の戦いを天下分け目に「した」のは、
家康その人
だったのです。

三成たちを動揺させて、考える暇を与えなかった。

「将棋」の勝負でも、残り時間が少なくなると、
たとえ名人であっても
「え、なんでそこ打つの?」と思われるような
悪手を打ってしまいがちです。
それを見越した家康、わざと
大坂城へと向かうような行動をした。
三成たちは、それに誘い出された…。
まさに百戦錬磨、心理を読み切った行動です。

改めて最後に、まとめましょう。

関ケ原の戦いは「天下分け目」と言われますが、
冷静に考えれば、他の選択肢もまだあった。

しかし西軍の当事者たちから見れば、
そうせざるを得なかった。
三成の焦り、内部分裂、毛利軍の戦意のなさ…。

「勝ちに不思議の勝ちあり、
負けに不思議の負けなし」
とは言いますが、

「自分たちが勝つ」というよりも、
「西軍が負ける要素」をどんどん増やしていった、
徳川家康こそが、一枚上手だった
のだと思います。

読者の皆様は、いかがでしょう?

「天下分け目」と思っている勝負。
実は、他にも選択肢はありませんか?
冷静に、客観的に見てみると、
そこが勝負どころではなくないですか?
体調万全、冷静沈着な中で、決断していますか?

そういうことを考えさせてくれる
関ケ原の戦いは、やはり
歴史の教訓に満ちているように思うのです。

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