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「カイジ」の説教 ~鳥見桐人の漫画断面図3~

説明して教える、と書いて説教

本来ならありがたいことなのに、あまりされたくないのが説教だ。もちろん、俺もまっぴらごめん。学生時代によくネチネチと説教してきた先生がいた。頭の中で、何度ハリセンでしばいたことか。

「あんたに言われたくないよ…」

そう思われれば、説教の効果は薄い。する側とされる側に、かなりの信頼関係がないと成立しないといけない。ましてやすぐには終わらないものだ。一言ですむ説教は説教ではなく、注意とか警告と言った方がいい。

俺がこう思ったのも、休日の昼下がりに近くの多目的グラウンドで少年野球を見物していた時だった。エラーをした少年を、コーチらしき人物が熱心に指導している。いや、指導というより説教だ。あーあ、見ろよ、少年の顔を。建前上、しおらしく説教を聞いてはいるが、あれは「とっとと終われ」としか思ってないな。説教をする側は延長戦になりがちだが、される側はコールドゲームでもいいから終われと思っているものなんだ。逆さに置いたコップに水は注げない。逆効果…。

コップを連想したせいか、急にのどがかわいてきた。うん、ここはカフェタイムだな。ついでに漫画も読んでこよう。俺は、立ち上がった。

「カイジ」の説教シーンを読みたくなったのだ。

アニメ化も映画化もされ、パチンコにも取り上げられて、今や国民的漫画の1つといっていい。福本伸行さんの「カイジ」。「〇〇〇〇録」と副題がつき、連載もだいぶ長い。

この漫画の凄まじいところは、ギャンブルジャンキーや多重債務者の情景を、鮮やかに表現しているところ。「限定ジャンケン」「鉄骨渡り」など、各ギャンブルの設定も秀逸だ。次はどんな勝負だろうと、読者は興味をかきたてられる。

だが、その根底にあるのは「未来に対する恐怖」

いまは自由な時代だ。車があれば、どこでも行ける。しかし、自由というのは、恐怖をも合わせ持っているものなのだ。自分の責任で天国にも地獄にも行きかねないという恐怖。ギャンブルは、その舞台装置。

誰も責められない。選択しなければいけないということは、自分で自分の人生をデザインしなければいけないということ。うまく行っているうちは自分の功績。しかしうまく行かなくなると、つい、他人のせいにしたくなる。だがその選択は、自責のものが大半なのだ。そんな選択を迫られる場面に追い込まれないようにする方策もあったはず。自分の弱さでそこまで追い込まれたのに、自分への甘さによって認めたがらない。内心の葛藤や後悔だけが募る。

「この選択肢で良かったのか?」
「あの選択肢をとっていなかったら?」

未来と過去に対して、自由は常にプレッシャーをかけてくる。「自由からの逃走」。人間は本来、完全な自由には耐えられない精神構造を持っている、のかもしれない。だから、スケジュール帳の空白を埋めたがる。やるべきことを設定し、それらで自らを縛っていく。それでいて、自分の選択に言い訳をつけたがる生き物。俺も、昔はそうだったな…。

「カイジ」には、ギャンブルという魔物にとりつかれた人間の悲哀が描かれている。読者は、ギャンブルジャンキーではない人も多いだろう。この作品が心をつかむのは、あり得たかもしれない悲劇的で享楽的な未来を、「鉄骨渡り」などのあり得ない表現で見せてくれるからなのだ。恐怖を味わいたい、という「ホラー映画」にひきこまれる心理と同じなんだろうな…。

そんなことを考えているうちに「てなもん屋」に着いた。この漫画喫茶の店長は、俺の旧友である。挨拶もそこそこに俺は彼に言った。

船での先生の説教シーンが見たくなった」
「カイジか? ほらよ」

話が早い。俺は椅子に座ると、ページをめくった。

ここでの登場人物は中年の男性。主人公たち「債務者」に説教をする。債務者は1人では、ない。たくさんいる。この場面はギャンブルの説明のシーンなのだ。しかしその説明は不十分。何をすべきなのかがよくわからない。当然、彼らは説明を求める。自由への恐怖。その彼らに、男性は冷水を流し込むのだ。聞き手のコップが逆さになっていることなどかまわずに。

「ぶち殺すぞ…… ゴミめら……!」

それまで丁寧に説明していた男性が、急変する。雰囲気が変わる。この描写が凄い。最初の悪罵は、ごちゃごちゃっとした小さなフキダシで描かれている。え?何て言ったんだ?と、登場人物と同じように、読者も思う。ページをめくると、大きなコマで男性の「ぶち殺すぞ」だ。心を撃ち抜かれる。しかもこの回はここで終わる。凄いヒキ。連載をリアルタイムで読んでいたら、さぞかし次の1週間が待ち遠しかったところだろう。

この衝撃的な一言を聞き、参加者たちは虚を突かれる。読者も一瞬、真っ白になる。

まずいことをしたのかという恐怖と、ゴミよばわりされたことへの屈辱感。彼らは自分の失敗を他責にし、何となく責任の所在を曖昧にして会場に来ている。甘い者たちだ。そこを男性は突く。真正面から「ゴミめら」というキツい言葉を使って、彼らを罵倒していく。その上で、説教を始める。

説教の中では、将棋の羽生名人や、野球の野茂投手・イチロー選手がたとえに出てくる。彼らの心理に届かせる演出。有名人だから、誰でもその名を知っている。その天才たちも、勝ち続けなければゴミになっていた、という可能性を示唆する。

「お前たちは、選択を間違って間違ってここに来た。
誰のせいでもない、自分のせいだ。」

男性の言葉はストレートで容赦がない。そんなことは周囲の大人たちは言ってこなかっただろう、と問いかける。まさに「説教」だ。しかしその説教に、みんなが聴きいる。コップはいつのまにか上を向いている。衝撃的なつかみによって、逆さになっていたコップは強制的に上を向かされた。あとはこの男性の言葉がどんどん注がれていく。金は命よりも大事。勝たなければゴミ。何というシンプルさだ! ネチネチという表現の対極。バサバサ斬られる感覚。しかしその斬られることが快感に変わっていくかのような、債務者たちのマゾ的な表情。なぜならば、今まで彼らをこうやって面と向かって「説教」してくれる大人がいなかったからだ。

男性は言うだけ言うと退場する。場は引き締まった。なんと、この説教に感涙するもの、多数……!

「勝つぞ……勝つぞ……!」

説教は、成功した。

そんな彼らを見て、何と単純な奴らかと、主人公は戦慄する。肝心かなめのギャンブルの詳しい説明については、うやむやにされただけではないか…? この対比の描写も素晴らしい。あとは「福本節」に乗り、騙す者と騙される者、ギャンブルの妙味を存分に味わうだけである。

…俺はそのシーンだけを読み終わると、店長に言った。

「冷たい水を一杯」

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いかがでしたでしょうか?

今回は福本伸行さんの「カイジ」より、有名な説教の場面を取り上げました。「ヤンマガ風味のギャンブル漫画でしょ?」「あのとがっているアゴが…」と敬遠するには、惜しい名作です↓

未読の方は、ぜひ1巻から、ご一読を!

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