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「関ケ原の戦い」はあまりにも有名なのに比べ、
「小牧・長久手の戦い」はちょっとマニアック。
こまき・ながくてのたたかい。

「そもそも、二か所というのが紛らわしい」
「小牧ってどこ? 長久手ってどのあたり?」
「ええと、誰と誰が戦ったんでしたっけ?」
「結局、勝敗がつかなかったのでは…」

そんな風に考えてしまう人も、多い。
ですが実はこの戦い、
関ケ原の戦いに負けず劣らずの
「天下分け目の大決戦」だったのです。

本記事では色々な側面から
この戦いを書いてみたいと思います。

①そもそも、どこ?

「小牧」(こまき)は、
愛知県の名古屋の北のあたりです。
織田信長が美濃(岐阜)攻めの拠点として
使ったことでも知られています。
信長は美濃を手に入れると、
中心の稲葉山城に本拠地を移したので、
この小牧は廃城になっていたんですね。

一方、「長久手」(ながくて)は、
愛知県の名古屋の東のあたり。

名古屋の北→名古屋の東。

…場所移動をしていますよね。
つまり「小牧・長久手の戦い」は、
最初は小牧、名古屋の北のあたりで戦い、
そのうちに長久手、
名古屋の東のあたりに主戦場が移ったという、
ちょっとヤヤコシイ戦いなのです。

②なぜ移動したのか?

天下統一を目指した秀吉に、
織田信雄・徳川家康の連合軍が
「ちょっと待った」をかけた形で、
戦いが始まります。

1584年のこと。
前年に柴田勝家を討ち滅ぼして、
秀吉、ノリにノッています。
その軍勢、およそ十万人。

対する信雄・家康勢、およそ三万人程度。
…まともに戦っては、勝ち目がない。

そこで家康、廃城となっていた小牧に
砦や土塁を築いて、守りを固めます。
双方、打つ手がなく、膠着状態に。
しばらく、小牧でにらみあいます。

これ、秀吉にとっては、良くないです。
なぜなら、柴田勝家は倒したとはいえ、
いつ周りが攻めてくるかわからないから。
現に家康は、紀州・四国・北陸・関東などに
書状を送り、「秀吉包囲網」
形成しようとしていました。
長期戦に持ち込むのが、家康の作戦。

「はやく家康を倒さなければ…」
秀吉、焦ります。
そこで考えたのが、大胆にも家康の本拠地、
三河(名古屋のもっと東)を攻める作戦
です。
次の四人に兵を預け、出撃させるのでした。

◆一番隊:池田恒興 (5,000人)
◆二番隊:森長可(3,000人)
◆三番隊:堀秀政(3,000人)
◆四番隊:羽柴秀次(9,000人)

…この作戦を、家康は察知します。
密かに兵を伏せ、奇襲をしかけるのです。
この秀吉の「本拠地襲撃部隊」を
見事に家康が打ち破った場所が、
長久手、なのでした。

最初は「小牧」でにらみあっていたのが
秀吉側が奇襲をしかけ、
それを「長久手」で家康が打ち破った…。
だから、小牧・長久手の戦い、なんです。

③どうやって家康が勝ったのか?

さて、ここで問題。
家康は、上記した四隊のうち、
どの部隊に奇襲をしかけたのでしょうか?

…ふつうに考えれば、
一番隊の池田軍を攻撃しますよね。
しかしそこは、戦上手の家康。
一番隊の池田軍が城を攻撃しているうちに、
密かにうしろに別動隊を回して、
一番後方の四番隊、兵力が一番多い
羽柴秀次軍を攻撃した
のです!

「な、なぜこんなところに敵軍が…!」
動揺した秀次、自分の馬も見つけられず、
慌てて逃げ出した、とも言われています。
秀次は、まだ16歳くらいでした。

四番隊の秀次軍、壊滅…!

三番隊の堀軍はこれを見て反撃をしますが、
家康本隊が出てきたことを知ると
これは勝てないだろうと判断し、
秀次を守って退却していきました
(秀次、次の関白になるほど
豊臣家では重要人物なのです)。

残るは、一番隊と二番隊のみ…。
家康は、四つの部隊を時間差攻撃により
各個撃破、巧みに分断して、
自軍に有利な態勢を作り上げた
のでした。
まるでその昔、「三方ヶ原の戦い」で
武田信玄におびき出されて
ボコボコにされた教訓を活かすかのように。

…とはいえ、まだ勝利は確定していません。
これで五分五分です。
何しろ秀吉軍、兵力が多いので。

《家康・信雄連合軍》
◆徳川家康本隊(3,300人)
◆井伊直政隊(3,000人)
◆織田信雄隊(3,000人)

《秀吉軍》
◆池田恒興の子の隊(4,000人)
◆森長可隊(3,000人)
◆池田恒興本隊(2,000人)

この両軍が、激突します。
ただし地の利は、徳川家康にある。
秀吉軍は、無理をして敵の中に攻めてきた。
「アウェイ」です。
家康はそれを迎え撃ったホーム戦ですから。

じきに、池田恒興の長男、恒興本人、森長可、
秀吉軍の大将が討ち取られていきます。
池田恒興の次男、池田輝政は、
無念の気持ちで退却していきました。
…こうして、長久手での戦いは、
家康の勝利に終わったのです。

※兵数は諸説あり、Wikipediaから引用しました。

④百倍返しをする秀吉

ここで終われば、家康の勝ち。ですが、
さすがの秀吉、逆襲していきます。
ただし、自分の得意な「人たらし」、
政治力を使って…。

何と家康と手を結んでいた
織田信雄を懐柔して、
勝手に講和を結んでしまう
のです。

家康、開いた口がふさがらない…。
もうちょっと頑張れば、
秀吉包囲網で勝てるかもしれないのに…。
戦う大義名分がなくなったために、
家康も講和に応じざるを得なくなりました。

その後の秀吉、包囲網を各個撃破します。
紀州攻め、四国攻め、北陸攻め。
気が付くと秀吉に対抗しているのは、
家康と関東の北条氏、東北、九州くらいに。

見方を変えれば、
狭い戦場で家康が行った各個撃破を、
もっと広い視野で、秀吉が行った、
と言ってもいいでしょう。百倍返し。
「戦術では家康の勝ち、
戦略では秀吉の勝ち」
と言われるゆえんです。

秀吉は家康討伐を考えていたそうですが、
1586年、天正大地震が発生します。
ものすごい被害を受けた秀吉側は、
和平策に転じ、家康を自分の家来にしました。
こうして家康は豊臣家のナンバーツーに…。
秀吉が死ぬまで、天下取りの野望を
一時お休みさせるのでした。

以上、小牧・長久手の戦いのお話。

天下人、秀吉に対して
一歩も引かなかった家康!
家康に戦場で負けても焦らず、
広い視野で百倍返しした秀吉!

小牧・長久手の戦いは、
その後の二人の微妙な関係を決定付けました。
歴史を左右した「天下分け目の大決戦」と
呼んでもいいのではないでしょうか。

もし、ここから教訓を得るとするならば、

「相手が強くても、すぐに降伏したら
滅ぼされるから、舐められないように
実力を示しておきましょう」
「たとえ狭い戦場で負けても、焦らず騒がず、
広い視野で取り戻せば、OKです」
「勝手に仲間が敵と手を結んで、
ハシゴを外されないようにしましょう」

といったところでしょうか。

読者の皆様におかれましても、ぜひこの
「小牧・長久手の戦い」、
名前だけでも憶えて帰っていただければ
幸い
です(若手芸人ではないですが…)。

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