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政治には、明確な「正解」がありません。
誰かにとっての正解は、
誰かにとっての不快でもある。
ゆえに政治のトップは恨みを買いやすく、
時には命を狙われることもある…。

総理大臣、伊藤博文、原敬、犬養毅。
みな、凶弾、凶刃に斃れた。

犬養毅(いぬかいつよし)は
1932年の「五・一五事件」で暗殺されます。
当時の首相が殺害されたことで
日本全国に大きな衝撃が走りました。

…では、その4年後、1936年の
「二・二六事件」ではどうだったか?

当時の首相は、岡田啓介(おかだけいすけ)

彼は、九死に一生を得て、助かった。
そのこと自体が日本の行く末を左右します。
「命を狙われる」ことで時代が動き、
「命を救われた」ことで時代を動かした人…。

ただ、知名度は高くはありません。
「二・二六事件で命を狙われた総理」
としか知らない人も多い。
(それ以前に名前すら知らない人も多い…)

福井県出身の唯一の首相(2024年時点)。
地元では有名人。
福井駅の近くには銅像まで建てられている。
ある一人の「秘書」とともに…。

本記事では、岡田啓介について書きます。

1868年に生まれ、1952年に亡くなる。
1868年は、いわゆる「明治維新」の年です。
1951年は「サンフランシスコ平和条約」の年で、
翌年に発効。その1952年に亡くなった。

いわば、この人は「大日本帝国」の興亡、
「明治~大正~昭和戦前・戦中・戦後」の
ど真ん中ストレートを生きてきた人
なんです。

福井藩士である父の長男として生まれる。
16歳の頃に上京。
現在で言う開成中・高に在籍しますが、
家から学資の援助を受けていたことを
心苦しく思っていたそうです。
ゆえに、お金のかからない学校を受験する。

海軍兵学校でした。

1889年に海軍兵学校を卒業。
1894年の日清戦争(「浪速」分隊長)、
1904年の日露戦争(「春日」副長)、
1914年からの第一次世界大戦、
(第二水雷艦隊司令官)すべてに従軍。

いわば、生粋の海軍軍人です。
1924年には連合艦隊司令長官、
1927年には海軍大臣にまで昇っている。
ロンドン海軍軍縮条約の調整にも尽力した。

ついに1934年、内閣総理大臣に就任…!

ただ、軍人らしい豪快なエピソードや、
華々しい実績などは、ない。
淡々と「できることをする」タイプ。

お金にも汚くない。清貧でした。
後に総理大臣になった時、
番記者たちに振る舞うお酒が買えず
「これで自分の好きな酒を冷やしてくれ!」
と言って「氷だけ」を配ったそうです。
晴れの席、親任式の際には
正装のシルクハットを持っておらず、
娘婿の迫水久常(さこみずひさつね)から
借りてかぶっていたほど…。

とにかく「地味」です。
戦後の有名な首相、田中角栄さんとか
小泉純一郎さんとかとは
真逆のタイプだと想像してください。

「でも、そんな地味だけの人が
内閣総理大臣に…?」

もちろん能力は高かった。
メモを取ることなく、複雑なデータや
文書の所在を正確に記憶していたそうです。

周りの人材にも恵まれた。
有名な高橋是清(たかはしこれきよ)は
岡田内閣組閣で大蔵大臣に就任、
片腕として彼を助けてくれました。
若き日には英語教員を務めており、
岡田の恩師でもあった人物です。

そして生活面では、
妹の夫、義弟の「松尾伝蔵(傳蔵)」
陰で支えてくれました。

この伝蔵さん、陸軍の元大佐。
福井の地元では市議会議員にもなり、
「松尾の伝さん」と親しまれていた人物。
それが義理の兄が総理になったと聞いて、
全ての職を辞して上京したんです。
首相官邸に住み込み、生活を世話する。
給料はもらわない。ボランティア秘書…。

(ここから引用:回顧録より)

『松尾はわたしの妹の婿で、
なんというか、非常に親切な男だった。
その親切には少し
ひとり決めのところがあって、
私が静かにしていたいときでも、
なにかと立ちまわって
世話をやくというふうな性質だった』

(引用終わり)

この頃の岡田啓介は、
最初の妻、二度目の妻に先立たれて独身。
しかも貧乏生活です。
人情あふれる「伝さん」としては、
「俺が助けてやらなきゃ!」という
アツい気持ちがあったのでしょう。
その伝さんのおせっかいな親切を
やきもきしながらも頼りにしていた…。

当時の議会では
右派が政府を攻撃してきます。
その猛攻に対し、首相の彼は
地味さ、一種の「おとぼけ」で対抗する。

「首相、日本の国体をどう考えるんだッ!」
「憲法第一条に明らかであります」
「その条文には何と書いてあるんだッ!」
「それは第一条に書いてある通りであります」

人を食った答弁。岡田構文。
そのしたたかさから「狸」とも呼ばれた。
戦後にワンマン首相と呼ばれた吉田茂は、
岡田を「国を想う大狸だ」と評しています。

しかし、1936年、2月26日…。

「二・二六事件」が起きました。
…ここで岡田啓介の身代わりとなって、
伝さんこと松尾伝蔵が、殺害された。

反乱軍も、まさか似たような
初老の総理っぽい人が
首相官邸に二人も住んでいるとは
想像できなかったのでしょう。
伝蔵を啓介と間違えた。
彼は、九死に一生を得て生き延びる…。

この事件で彼は、片腕の高橋是清や、
「影武者」の秘書、伝蔵たちを失います。
強く責任を感じた。意気消沈、憔悴。
昭和天皇が「岡田は自決するのでは…」と
心配したほどです。
同年3月9日、岡田内閣、総辞職。

日本はその後、世界大戦へと飛び込んでいく。
…しかし、この後の彼は、おとぼけではなく、
鬼気迫る決死の行動を開始した。

「アメリカとの戦争を、止める!!」

自分の身代わりとして亡くなった
伝さんのことが常に頭にあったのでしょう。

1943年、ミッドウェー海戦の敗戦、
ガダルカナルの戦い…。
日本の戦力が失われたことを知った彼は、
あの手この手の執念で、当時の
東条英機内閣の打倒へと動く。

「この国の全部が破壊されないうちに、
戦争の終結に向かわせる!!」

東条内閣が倒れた陰の立役者は、
岡田啓介だ、といってもいい。

「終戦内閣」鈴木貫太郎内閣では、
娘婿の迫水を内閣書記官長の職につけた。
鈴木首相自身も二・二六事件で銃撃され、
重傷を負いつつ九死に一生を得た人物です。
「鈴木内閣は岡田内閣だ!」と新聞が書いた。
なお、迫水は「終戦詔勅(玉音放送)」を
起草した人物です。

そう、二・二六事件後の岡田がいなければ、
今の戦後の日本は無かった、かもしれない。

その意味で「身代わりになった伝さん」は
日本の歴史を動かした、とも言える…。

最後にまとめます。

本記事では、知られざる戦前の首相、
岡田啓介とその秘書を
かいつまんで紹介してみました。

…彼らに会ってみたい、と思った方は、
北陸新幹線などに乗って、
福井駅まで行ってみてください!

福井駅前の東口広場。

ここには、岡田啓介の銅像と、
松尾伝蔵の胸像が仲良く並んでいます。

※『岡田啓介回顧録』↓

※松尾伝蔵に関する記事↓

特に「二・二六事件」で
松尾伝蔵が身代わりになるさま、
岡田啓介が九死に一生を得る脱出劇、
娘婿の迫水久恒たちの
「決死の救助活動」などは、
フィクションか、と思えそうなほどの
迫真のノンフィクションです。
ぜひどうぞ!

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