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イギリスのヴィクトリア女王についてのお話。

彼女については、そこまで日本では知られていないのではないか。歴史の授業で名前だけ知っていて、どんな人だったのか知らない人も多いだろう。

イギリスは、伝統的に女王が有名である。

例えばエリザベス1世(在位1558年~1603年)は、日本で言うと戦国時代から関ケ原の戦いの頃に活躍した女王だが、当時最強と言われたスペインを海戦で破るなどして名声を高めた。また、2021年現在のエリザベス2世(在位1953年~)は、1926年生まれの現在90歳以上のご高齢だが、半世紀以上ずっと王位にある。

ヴィクトリア女王は、1819年に生まれ、1901年に死去した。

日本で言うと、幕末から日露戦争前あたり。「最後の将軍」徳川慶喜が生まれたのは1837年だが、同年の1837年から在位し、以後死去するまでずっと王位にあった。世界を植民地化・半植民地化した「大英帝国」の象徴とも言える女王である。

アフリカの湖「ヴィクトリア湖」、香港の観光地「ヴィクトリア・ピーク」、カナダのブリティッシュコロンビア州の州都「ヴィクトリア」、その他たくさんの世界中の地名が、いずれも彼女の名前にちなんでつけられた。

今日の世界では、いたるところで「英語」が使われ、日本の学校教育でも英語が学ばれている。イギリス流の「紳士的なスタイル」(スーツ・ネクタイ・革靴)がビジネスのスタンダードとなっており、「議会制度」は多くの国で導入されている。

それはこの「大英帝国」の時代に、イギリスが恐ろしいほどの影響力を世界中に与えた証拠に他ならないだろう。

その大英帝国のシンボルであったヴィクトリア女王。いったいどんな人物だったのだろうか?

一言で言えば「直情径行」、思ったことはやる、悪く言えばわがままな人物だった、と言われている。「公的な人物、女王なのに、わがまま?」と思われるかもしれないが、どうしてどうして、相当に人間臭い人物だった。

好き嫌いが、ものすごく激しかった。

例えば、自分の嫌いなグラッドストンという人物が総理大臣になった。しかし彼女は「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません」と、手紙の中で酷評した、と言われる。彼が亡くなった時、新聞に弔電を送るように頼まれたが、拒否した。公人としてはいかがなものか。なお、グラッドストンは「世界最高の議会における最高の議会人」とまで言われた人格者である。

逆に、好きな人は、とことんひいきした。

夫であるアルバートとは、1840年(世界史で言えば「アヘン戦争」が始まった年)に結婚した。一目ぼれだった。賢明な夫との共同統治で、彼女も精神的に安定し、自信をもって政務に向かった。しかし1861年(日本で言うと幕末、尊王攘夷の嵐が吹き荒れて、英国大使館が襲撃されたりした年)、アルバートは42歳の若さで病死する。夫を失った彼女は哀しみにうちひしがれ、10年以上も喪に服した。

その後は、ディズレーリという政治家を寵愛し、自らが摘んだ花束を彼へ送り、作家でもあった彼は自分の小説を女王へ送る、というとても親密な関係にまでなった、という。ちなみに、ディズレーリはグラッドストンの政敵でライバル関係にあり、積極的に「大英帝国」を広げた人物である。

そろそろ、まとめていこう。

ヴィクトリア女王は、その長い治世の間、立憲君主制(君臨すれども統治せず)を保ち、有能な総理大臣たち(グラッドストン・ディズレーリなど)の上に立って、大英帝国の象徴となった人物だ。

それゆえに、ともすれば「公平無私な人格者」であるかのように錯覚されがちだ。ところがその人物像を見てみると、いかにも人間臭い面が多い。だが、むしろそれがゆえに愛された面がある。

人間は、マシーンのような完全無欠な人物に対しては、敬愛さを持ちにくいのではないか?

その点から考えると、彼女はその欠点すら魅力になり、批判はあれども愛された人物であった、と思われる。

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