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「この訃報は、書き手の矜持」まだ信じられないヒスイです。

SNSで ご遺族が訃報を出されるのは
noteくらいなものでしょう。それは書き手の矜持だと思う。


ヒスイがnoteをはじめて、2年弱になります。
そのあいだに何回か、『訃報』を拝見しました。
ご遺族からの訃報がほとんどだと思います。

これは、すごい、と思うのです。


ヒスイはほかのSNSをほぼ知りませんので
比較することはできませんが
故人が運営していたブログに、ご遺族がわざわざ
『訃報』を載せられるのは
あまり多くないと思います。

ブログって、個人的なもので
だから実生活に影響がない形で書くことが多く
当然、一番近くにいる身内には
絶対に身バレしたくない、という人さえいるわけです。

そのなかで、
家族に『自分に何かあったら、後をたのむ』なんて言うことは
めったにないはず。
ところが、noteにおいては
ご遺族が『訃報』を出される。

内容を読むと
『かねてより、本人に『万が一のことがあったら、noteを頼む』と頼まれていた』
という方が多いんです。


責任感がある。
『自分が書いたものが、人に読まれる』という意識を
しっかりと持っている書き手が多いからなんでしょう。
ただのブログじゃない。
日常的なことを書いていても
些細なことを通じて、自分が考えていることを
きちんと外へ伝えたい。
そう思っているからこそ、
自分が死んだあと、読み手に対して、

「身体としては無くなりましたが、思想は、息遣いは、ここに残っていますよ。いつでも読んでね」

という説明責任を果たしておきたいと思うのでしょう。

そう言う意味では、オンライン上において
noteは稀有な空間である、とヒスイは思います。

フェイスブックは実名。
けれども、フェイスブックに絵や歌や小説や
自分の心の内を素直に残しておく人は
少数派だと思います。
当たりさわりのない事を言い、
リアルな人付き合いとよく似た人間関係を構築する。
だから、フェイスブックには攻める気概はありません。
リアルに近すぎて、危険なんです。

逆に匿名性にかくれられるツイッターには、無駄な攻撃性があります。
でもそれは、闇討ちみたいなものだから。
自分だけは安全なところから毒矢を放てるから、攻撃するんです。

無責任な攻撃。
そのせいか、ツイッターには故人の作り捨てたアカウントが
山のようにあります。だれも訃報なんて出しません。
関係性が薄いんです。


noteは、そうじゃない気がします。
多くの人が自分の考えをまじめに書き、
コメントし、相互に意見が発生して、なにかを人の心に残していく。

自分の発言に、責任をとりたいと思わせてくれる
サイトなんだと思います。


なんかまだ、ヒスイ自身も混乱していて
だから今日はうまく書けませんが、
それも仕方がないかなあと思う方を
失くしました。
闘病されていることは知っていましたが、
まさかね。
わかっていても。
まさかね。


そういうことです。


ご冥福をお祈りいたします。

けど。


まだお祈りしたくなかったよ、まねきさん。

注)
ヒスイに万が一のことがあった場合は、
同居人・ケロが ヒスイ日記をクローズすることになっています。
日記は終了してもアカウントはもちろん残りますので
ご安心ください笑。
って。アカウントを消したくないのは
ヒスイの願いなのよん💑

ではまた、明日おあいしましょう💛

ヒスイをサポートしよう、と思ってくださってありがとうございます。 サポートしていただいたご支援は、そのままnoteでの作品購入やサポートにまわします。 ヒスイに愛と支援をくださるなら。純粋に。うれしい💛