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「人は事実を歪曲する、自分を守るためだ」ヒスイの映画感想文×2本


今日はちょっと、まじめに。
「見たくない事実を正面から見る、ということほど難しいことはない」。

最近、たてつづけに
2本のナチス関連の映画を見ました。
「ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」


「ゲッベルスと私」

どちらも、第二次世界大戦中に
ドイツにいたドイツ人にインタビューをした
ドキュメンタリー映画です。

ナチス関連の映画は
フィクション、ノンフィクションともにたくさんあって
ただ、わりとどれも
ユダヤ人側の視点から
描かれているものが多いような気がします。
「ライフ・イズ・ビューティフル」や「戦場のピアニスト」なんかが
そうですね。

戦時下、迫害がひどくなる大変な状況を
いかに生き伸びるか、生き延びられなかったか、という
映画は
心に残ります。

同時に、私はいつも思っていた。
『で、このときドイツ人は何をしていた?』

答えがほしくて
迫害された側(ユダヤ人や対独レジスタンスの人々)
迫害した側に関する
いくつもの本を読み、
映画を見た。

そして思った。

『あのとき自分が、ドイツにいたら
 何をしていたんだろう』
と。

先に掲げた二つの映画が、
その答えになる気が、した。



「ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言」は
文字どおり、当時のドイツで暮らしていたドイツ人に
インタビューを重ねていく、というもの。

ナチスに入っていた人もいるし、
入らずに、ただ当時の「体制」とともに
生き抜いたという人もいる。

とにかく、現場に身を置いていた人たちが
生きている間に
ナマな声を聴いておきたい、
のこしておきたい、という意図で作られたもの。

画面に出てくる人々は
それぞれに、意見がある。
ナチスを否定するもの。
いまなお、受け入れているもの。

どちらにせよ、個人の見解であるし、
カメラを持つ監督が重ねていく質問に、
みんな、考えながら答えていく。

多くの人たちは
「何が起きているのか、しらなかった」という。
強制収容所も
ユダヤ人が殺されているのも、
知らなかった。
知らされていなかった、と。

そういうとき、
彼らの目は
遠くに泳いでいる。

映画の終わりちかく、数人のドイツ人女性が
集まって話すシーンがある。
「知っていた人もいたのかも。でも、私は知らなかった」
だが、隣にいた女性が言う。

「みんなが知っていた。誰も言わなかっただけよ」


どちらが真実かは、わからない。
いまとなっては、どちらが真実であっても
同じような気がする。


重要なことは、
自分の目の前に確かな事実があっても、
それを認めたくない、という時がある、という事だ。

なぜなら、
その事実が、あまりにも自分にとって痛いから。
真実は、みとめたくないほどに鋭角であることが、多い
からだ。

私たちは、目の前の事実から
逃げることが多い。
その方が、楽だからだ。
自分を守りたいから。



映画「ゲッベルスと私」は
ナチスの宣伝大臣、ゲッベルスの部下で、
宣伝相のタイピストのひとりだった女性、ポムゼルの
インタビュー映画だ。
当時の映像と、ポムゼルの表情を映し出すなか、
ポムゼルは何度も、同じことを言う。

「私は何も知らなかった」
「今の人にはわからない。あのナチス体制から、
 逃げられるわけがなかった」
「(ドイツ国内のレジスタンスについて)
 黙ってさえいたら、今頃きっとまだ生きていたのに」

そして彼女の言葉は続いていく。

「何も知らなかったのなら、
 やっぱりそれは
 私たちの罪ではない」

そう言いながら、
ポムゼルはまた、
両手で目をふさぐ。



どれほど拒否しようとしても
どれほど目をつぶろうとしても
事実は、
追いかけてくる。
罪悪感をともなって
追いかけてくる。

それは、事実を認めなかった
代償なのだろうと思う。

自分にとって痛い事実を、
そのままの形で見て、
受け入れて、
真実の鋭角で
咽喉を削られながらも
呑みこんでいく。
弱くて、何もできなかった自分を
否定も称賛もしないで
ただまっすぐに見て、
受け入れる。

これほど難しい作業はないけれど、
事実を呑みこみきった後には
静かな平穏と
誇りが
生まれてくるんだろうと思う。



私も
事実をそのまま
見つめられる人でありたい。
たとえ、あのころのドイツにいたとしても。

弱い人間だから、
明確なレジスタンス運動に参加する勇気はないかもしれない。
なにひとつ、抵抗の声はあげられないかもしれない。
だけど
事実を
歪曲して忘れることは
したくないと思う。

あの時のドイツにいたら、
どこまでやれるか、わからないけれど。
事実と正面から向き合う
姿勢だけは
持っていたい。


これは、政治的な事ばかりではなく、
海外の事ばかりじゃなくて、
もっと小さな日々の暮らしでも、おんなじだ。

何度も
たしかめることが
大事だと思う。


自分は
自分にとって不都合な事実から
目をそらしていないか。
認めたくない事実を歪曲して
都合よく書き換えてしまっていないだろうか。

明らかな事実から、
逃げていないか。



立ち止まり、
自分を疑い、
事実をフラットな目で見てから、
立ち向かえ、と。

自分の弱さを認めながら
夜半、白いワインをお供にして
この2本の映画を見ました。


事実はただ、
そこにある。

見る人によって無数の角度をもつが、

真実は

いつもただ
そこにある。


自己偽善の毛布、一枚分だけをわが身からはぎ取って、
無防備になってでも、
事実を見る強さが欲しいと
思いました。


【了】

ヘッダーは、UnsplashAedrianが撮影

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