感想 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』を読みました。印象に残った歌を、いくつか引用します。

「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」
「ミケネコがわたしに向けてファイティングポーズを取った殺しちまうか」
「寒空の吹けないはずの口笛の AV男優と女優の結婚」
「雨上がりの雲がまぶしい真昼間の五反田駅で誰かが叫ぶ」
「ローソンの前に女の子がすわる 女の子が手に持っているもの」
「どう たのしい OLは 伊藤園の自販機にスパイラル状の夜」
「月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね」
「この文面で前にもメールしたことがあるけどいいや 君まで届け」
「今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する」
「わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる」

一見誰でも簡単に作れそうに見えて、実はよく技巧的に作り込まれている。そんな感想を抱きました。
例えば「マンションのひさしで雨をよけながらメールを書いている男の子」という歌は、並の歌人なら「メールを打っている男の子」とするはずです。
よく読み込んでみると、こういう仕掛けに気付くんじゃないかと思います。

短歌世界としては、主体の身体性も感情も感じられないし、世界のすべてが他人事っぽいような印象を受けます。
その点、『ノルウェイの森』のワタナベっぽいな、と思いました。
セカイ系が「きみとぼく/(社会領域の省略)/世界」ならば、この歌集は「無関心なぼく/(社会領域の省略)/世界」という構造でしょうか。
この淡々とした感じを、(感動⇔共感主義的な)短歌というメディアを使って表現したところが、斬新だと思います。

たとえば、葬式の帰りを詠むとして、
A 葬式の帰りにコンビニで肉まん買って食べた
B 葬式の後電気を消しても寝付けない
この二つの短歌世界があるとします。

Aがリアルだと思う人もいれば、Bがリアルだと思う人もいるはずです。
たぶん、永井祐だったらAみたいな歌を詠むんだろうと思います。
今までの短歌世界はBに偏り過ぎていたのでしょう。
永井祐を批判する人の言いたいこともよくわかります。要は「スカしてんじゃないよ!」ということでしょう。
でもその批判は、永井祐の作品がもたらしたもの、炙り出したものだとも思います。
ただ、それでもあえてツッコミを入れるとすれば、「本当に大切な人が亡くなった後、人はAみたいな歌を詠むのだろうか?」という点は気になります。
どうも痛みが欠落しているような印象を受けてしまうのです。

現在、私は鷲田清一『死なないでいること』を並行して読んでいるんですが、《他者との関係性の中で痛みとして経験される死》に対して、永井祐の短歌は目をそらしているような印象を受けます。
でもそれは永井祐の短歌だけの問題ではありません。
出産や食事などの営みと同時に、死を家庭や生活からできるだけ遠ざけて、病院に押し込めてしまった、近代社会の問題です。
だからこそ、《葬式の帰りにコンビニで肉まん買って食べた》みたいな歌がリアルだと感じられる人もいるんじゃないのかな、と。

第二歌集も、そのあたりを意識して読んでみたいなと思います。