厭魅

本丸―歴史修正主義者と戦う刀剣男士にとっては住まいであり、彼らを指揮する審神者にとっては仕事場である。造りとしては、一階に執務室、食堂、厨、書庫が。刀剣男士たちの居住区画が二階、審神者の私室が三階にある。外には手合わせの為の道場や、大風呂、鍛刀の鍛冶場に手入れの救護部屋、果ては畑など様々な設備がある。
過去へと移動できる特殊な空間に築かれたこの城は、基本的に関係者以外立ち入りできない。つまりは平穏な空間、ということになる。

だが、事件が起きないわけではない。

審神者・霞月が政府への一月分の報告書を纏め終えた頃、空は白み始めていた。
あとは朝議の後に政府へ文を提出するだけ―と、仮眠をとるべく欠伸を噛み殺しながら自室へ向かう途中、二階まで上がったところで足が止まった。

何か聞こえた気がする。

気の所為かも知れないが、気の所為じゃないかも知れない。そんな些細な違和感が足を止めた。
寝ている刀剣男士たちを起こさないよう、足音を忍ばせ廊下を進む内、気の所為ではなかったと霞月は確信した。ある部屋から小さく声が聞こえる。
その部屋の主はにっかり青江。確か、相方のいない一人部屋だと記憶している。
そうっと襖を開けて耳を澄ますと、どうやら魘されているようで、呻き声が聞こえてくる。
霞月は失礼するよと小さく断り、朝の薄明に微睡む部屋の中、青江の布団の傍に膝をついた。
大きな声ではない、隣の部屋にも届かない程本当に微かな魘され方。
我ながらどうして聞こえたのかと不思議に思いつつ、霞月は青江を夢から呼び覚まそうと、肩を軽く叩いた。

「青江、青江だいじょうぶ?」
「……ぅ」

固く閉じられていた目がのろのろと開かれる。その焦点が、顔を覗き込む霞月を捉えた。

「ごめん。勝手に入って悪いとは思ったんだけど、魘されていたから…」
「…きみは」
「ああそっか、人型では初めてか。私は―」

しゃっ、と音がしたと思ったら、右腕と胸に熱を感じた。

「?」

一拍遅れて、壮絶な痛みを。

「っ…⁉」

この期に及んで叫び声をあげないよう歯を食い縛ったのは、〝主〟たる気概からか、それとも未だ眠る刀剣男士たちを気遣ったからか、或いは青江に斬られたという現実を受け止め切れなかったからか。
いずれにしろ疲労と痛みと衝撃とで混濁する意識の中、霞月が最後に見たものは、血を纏う脇差を片手に上体を起こした青江であった。
その瞳は、未だ夢の中にいた。


ゆっくりと目を閉じ後ろに倒れる霞月を、青江はただぼうっと見ていた。
石灯籠を斬ったにしては手応えが違う。そんなことをぼんやりと考えつつ、視線の先でじわじわと広がる血溜りを見遣る。
その中に倒れているのは、見覚えのない女の子。
夢に出てくる幼子でも、その母親でもない。
ではこれは誰だ?

『青江』

記憶の中の声が聞こえる。よく通る声だ。
頭のどこかが警鐘を打ち鳴らす。違う、急がなければと。でも何を―?

『青江』

再度記憶の声が聞こえる。この声は知っている。審神者のものだ。
でも何故今、彼女の声が頭に響く?
疑問に首を傾げつつ倒れている少女の顔を見た時―

『青江、だいじょうぶ?』

心配そうな顔で覗き込む少女の顔と、審神者の声が重なった。
まさかこれは。いや違う。彼女は人では、違う、あの子は人間だ。ではこれは。僕は、僕が斬ったのは、夢の中だと思っていたのは、石灯籠だと思っていたのは―
夢想と現実の差異に、その大きさに混乱する青江だったが、それでも一つの結論に辿り着かざるをえなかった。否定しようにもできない。記憶と手の中の本体がどうしようもなく訴える。

自分が斬ったのは主だと。

そう自覚したあとの青江の行動は早かった。
血溜りの広がり方から、幸いなことに、自分が呆けていた時間はほんの数秒と判断した。まずはこれ以上失血しないよう止血をしなければ。
傷口周辺の衣を剥いで清潔な布を押し当てると、布はみるみる赤く染まっていった。
しかし如何せん傷が広く、自分の応急処置では間に合わない。

「歌仙!起きてくれ、歌仙!」

隣部屋へ呼びかけ数秒後、眠そうな声が聞こえてきた。

「なんだい、騒々しい」
「こっちに来てくれ、早く」
「まったく…何だと言うんだ…」

不機嫌を隠そうともせずに襖を開けた歌仙は、しかし部屋の惨状見てその苛立ちを消し飛ばした。
早朝の空気に漂う鉄の匂い、朝焼けの光の中にあって鮮やかに広がる赤、同じ色に手を染めている青江、その手の先でぐったりと倒れている少女。
どれもこれも朝の情景に似つかわしくない。

「青江、これはいったい…。いや、もしかしてその娘は…」
「あとで話す。今はこの布を押さえていてくれ、足りなくなったらそこの棚から適当なのを使って。僕は手入れ職人のところに行ってくる」
「ああ…ああ、主!青江!何があった!」
「今は時間がないんだ、早く呼んでこないと―頼んだよ歌仙」
「青江!」

責められるのは解っている、でもそれは今じゃない。今は一刻を争う。
気を抜けば罪に沈みそうになる意識をそんな風に引っ張りながら、罪過を問う歌仙の声を背に、青江は人の治療に長ける職人―整備士の元へと走った。しかし―

「ここでは、これ以上の処置は行えません」

青江が呼んできた整備士が告げたのは、匙投げ。
整備士は、霞月を見るなり手入れ部屋へ運ぶよう二振に命じ、運び終わるや否や二振に手入れ部屋の外で待つよう言い渡した。それから待つこと十数分、手入れ部屋から出てきた整備士の第一声があれである。

「な、んで…もっと酷い傷でも治してきただろう⁉」
「それは皆さんが刀剣男士だからです」

曰く、刀剣男士の再生機能と人間の再生機能は似て非なるもの。
整備士たちが普段行っているのは、傷付いた刀剣男士の体の傷が悪化しない為の応急処置。その間に損耗した本体を鍛冶師が直せば、本体と繋がっている人体の方の傷も治ると言う。
つまり整備士に行えるのは悪化を防ぐ処置のみであり、傷を癒すには至らない。もし整備士が医術の技能を持っていたとしても、人材も設備も足りないのだと言う。
実際ここには、霞月の失った血を補えるものすらない。

「君たちに治せないなら、どうすれば…!」
「政府の元へ運びましょう」
「政府へ?」
「そうです。要するにここは設備が無いんです、ならば有る場所に行けばいい。政府はいつでも審神者候補を欲していますから、現職の審神者をみすみす失わせることはしないでしょう。…とは言え、私は政府への門の開き方を知らないのです。お二振はご存知ですか?」

問われた二振は揃って顔を見合わせた。しかしその顔はすぐに伏せられる。
政府、霞月が来た時代、ここにはない技術。ここでは不可能なことが、向こうでは可能であることも少なくないと云う。
政府に助けを乞う、それを考えなかったわけではない。しかしそれはできないのだ。
何故なら―

政府への道は、審神者にしか開けない。

しかも刀剣男士が随伴を許されるのは、月に一度の審神者集会が行われる時のみであり、審神者が随伴登録をしていなければそれすら適わない。

「……」
「…まさか」
「こちらから政府へ自由に繋げられるのは、審神者だけだよ。僕らには、できない。初期刀であってもね」

きつく拳を握りしめる歌仙の横顔を、朝日が照らしていく。それは手入れ部屋にも同じく満ちていき―今、光溢れる部屋の中で、ゆっくりと、砂時計の砂が落ちていくように、命が失われようとしている。
平等で残酷な光。本丸の希望たる彼女がいなくなったら、どうなるのだろう。次の誰かに仕えることになるのだろうか。
ふと浮かんだ最悪の考えを、青江は首を振って打ち消した。
何かある筈だ。まだ何かある筈だ。こんなことで死んでいいわけがない。こんなことで、死んではいけない。そうでなければ僕は―

「あのー」

足元から聞こえてきた遠慮がちな声に、青江は現実に引き戻された。この声には聞き覚えがある。
二振と一人が注目すると、声の主は〝おはようございます。〟と礼儀正しくお辞儀をした。

「私、この本丸の審神者様を捜しているのですが、ご存知ないでしょうか?本日提出の報告書を受け取りに伺ったのですけれど、お姿が見えなくて」

と、しっぽをゆらゆら揺らしながら。隈取をした黒い目をぱちぱちさせて。
それは政府直轄の伝令係、こんのすけ。
彼に頼めば、或いは―

「こんのすけ」
「は、はいっ?」
「お願いだ、彼女を助けてくれ」

僕の所為で死んでしまう。
君を斬りたかったわけじゃない。
君を殺したいわけがない。

「主を」

君の血の味なんて

「助けてくれ…!」

知りたく、なかった。

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