心という器と優しさ

2021年一発目のnoteなので今年折に触れて振り返りたい内容を書き残しておく。僕の僕による僕のための自戒テキストである。以下の内容は僕がバイトを1年半ほど続ける中で実感したことである。世間では常識的なことだろうが,そのような言葉の羅列として理解できる段階と経験の裏付けによって腑に落ちた段階には天地の差がある。

優しさは余り物

早速一般論をぶち込んでいくが,優しさは余りものである。何から生じた余り物かと言えば自己の充実感の余り物である。充実感は自尊心,自己肯定感,満足度,幸せ度などと言い換えてもいい。とにかく自己の充実感とは毎日の生活やその延長線上にある人生に充実感を覚えている感覚だと思ってもらえればいい。

ところが,このことを自覚できるまで僕は馬鹿だった。人に優しくしよう,感謝しようと意識的に思って生活しようとしていた時期があった。大学に受かったはいいが,鬱一歩手前で人並みの責務から全力で逃げていた大学1年から2年の夏ぐらいまでの時期である。

鬱っぽかった原因は割愛するとして,その時期の僕はバイトが嫌だった。今すぐ辞めたいほどではなかったが,できればしたくなかった。だから,バイト先で急な変更などがあってシフト外の出勤を求められたりするとその瞬間叫び出したくてたまらなかった。大学の数少ない友人のほとんどが偶然にも全くバイトせずに欲しいものを親の金で買っている状況で,しかも中には恋人がいる人間まで紛れ込んでいたので,自分だけ不必要なバイトをさせられている理不尽を感じていた。

こんな心理状況だったが,何よりお金を頂いている上にバイト先の方々はいい人ばかりだったので自分なりにバイトは頑張ろうと思ってもいた。

だが,その頑張りがつらくなる瞬間が定期的にやってくる。組織の持ちつ持たれつが発動する瞬間だ。バイトを含め組織は構成員の有形無形の贈与で成り立っている。契約書に書かれた通りのことだけやっていればいいという訳にはいかない。自分が快適に過ごせている裏では誰かが自分のために苦労してくれているものである。このことは流石にわかっていたので,僕も頼まれれば無理のない範囲でバイト先からの要望に応えようとした。

しかし,その要望は本来ならしたくない苦労であるバイトにさらに苦労が積み重なるものであり,僕の精神を削ってきた。
そして,削られた精神状態では他人の事情を想像してコミュニケーションしたり,自分ができることに苦労する人間にイライラしないことが困難になる。

こんなサイクルを1年半ぐらい繰り返してきたわけだが,3ヶ月前くらいからようやく上述の一般論を自覚できた。すなわち優しさは自己の充実感の余り物であり,自分が満たされていない時に発揮しようとしても発揮するのが難しいものなのだ。

器にはタイプがあるっぽい

しかし,優しさが自己の充実感の余り物だとすると,ある疑問が湧いてくる。それは「普段から優しい人間はいったいどうやってその優しさを発揮しているのだろうか」という疑問だ。

ここで優しさが自己の充実感の余り物だという直観から僕は心を仮に器だと見なしてみた。余りが生じるためには余りが出るまで自己の充実感を貯めておく何かが必要だと思ったからだ。「貯めておく」イメージが壺などの「器」と連想の相性が良かったので心=器だとすることにした。

さて,器としての心に充実感が注がれ,溢れ出すとその溢れた余りが他人に振り向けられる優しさとなる。そして,僕はその器が満杯にならない限り他人に優しくできない人間である。要するに調子のいい時と悪い時の対人対応に極端な差が出るのだ。
一方で,世の中にはいつも人当たりがいい人間がいる。これは八方美人のような損得勘定による人当たりの良さではなく,なんか人格的にできてんなーみたいな人当たりの良さである(伝われ)。

この人格ができてる方々はどうやって優しさを発揮しているのか。器の大きさが小さいから余り物が他人より出やすいのか。確かにこの可能性も大きいだろう。

だが,僕が何となく直観的に確信したのは人格ができてる方々の中には「器に穴が空いてる」タイプがいるということだ。論理的でなくて申し訳ないのだが,とにかくそう思えたのだ。
どういうことかといえば,このタイプの人間は心という器に穴が空いているので,器が満杯にならずとも他人に優しくできるのである。器に空いている穴からチョロチョロと充実感が溢れ出て他人への優しさに転化している。
僕のように優しさがゼロイチで機能するのではなく,ゼロからイチの程度差で機能するのだ。彼らはあまり他人に優しくできない時もあるだろうが,僕のように他人に全く優しくできないなんてことがほとんどない。

これは僕的にすごい大発見だった。優しい方々は自分の心が完全に満たされていなくとも,他人に対して適度な優しさを提供できるのかもしれないという気づきは僕のゼロかイチかという悪い思考の癖をかなり直球で自覚させる事例だったからだ。(だからといって僕が自分の心に穴を開けられるかは別問題だが)

まあ,後は壺の中に何を優先的に入れるか考えていけば良さそうだ。大事なものを先に入れないとあとで大事なものに気づいた時に入れるスペースがなくなっていそうであるし,何より歳を重ねるごとに体力が衰えて義務も増えるので壺の中身の変更という大胆な軌道修正が難しくなりそうだからである。例えば自分にとって大事なことが好きな人,愛する人と添い遂げることだと気づかず,恋人を比較的見つけやすい若いうちに別のことに集中していたら後で後悔する羽目になるはずだ。

おわりに

自分が満たされないと人に優しくできないことがソーシャルビジネスなどの社会貢献的な活動では重要になるのだと思う。他人のために自らの全てを投げ打って活動することは多くの人間には不可能だ。僕はノブレスオブリージュとか基本的に嫌いな人間だったが,最近はノブレスオブリージュさえもないと困るとも思っている。(ノブレスオブリージュとか言ってないで恵まれている側が特権を全て放棄して恵まれない側と同じところまで落ちてくればいいのにとか思っていた。ノブレスオブリージュとか崇高な理念唱えてるだけで所詮はこの類の活動は永遠に自己の特権性を放棄することにはつながらず,なぜか下を引き上げることに専念し,引き上げられない人間は色々と理由をつけて仕方のない人間だと切り捨てるだろうと)
そんなわけだから自らの全てを投げ打てるのは聖人君子だけなのだ。例えば,自らの犠牲で全人類の原罪を贖った(とされる)イエス・キリストなどだろう。
そんな人間には不可能に思える離れ業を成し遂げたイエス・キリストだからこそ,人間には永遠に届かない目標として,終わりなき信仰の導き手になれているという側面はありそうだ。なぜなら凡人が救世主と同格になったらその救世主に宿る権威とか神性みたいなの消滅してしまいそうだから。

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