自分らしさ称揚の生成と対処法

はじめに

ここ数年、自分のやりたいことや強みを生かして仕事をすることを推奨する風潮が強まっている。自らのありたい姿を熟考し、やりたいことを軸に大学や仕事を選ぶことがよいとされているようだ。確かにやりたくもないことをやる人生は退屈であるから、人生の時間の大半を占める仕事が楽しくなれば人生は充実したものとなるだろう。

しかし、私はこうした自分らしさの称揚とでも言うべき風潮が嫌いだ。だが、私はこのような時代に偶然投げ込まれた以上仕方なくこの風潮に適合していかねばならない。

そこで、今日は自分らしさの称揚に反発する私の主観的要因と一方で自分らしさの称揚を認めざるを得ない客観的要因について考える。その上で、自分らしさの称揚は普遍的価値ではないから、それを特殊な社会規範と捉える。最後に、この社会規範が生じるメカニズムを考え、個人としてどう対処すべきか考えていきたい。

自分らしさの称揚に反発する主観的要因

この主観的要因として自分が無価値だと思われることが私にとって耐えがたい恐怖であることがあげられる。私は自分なりに考えた内容が本質的であるがゆえに他人から認められることに価値を見出す。これがやりたいことだからだ。ゆえに、自分より頭がいいと思える人との会話についていけないと自分がその会話の場にいる資格がないと感じ、罪悪感に苛まれる。

つまり、自分がやりたいことが無価値だと思われるのがたまらなく怖い。

これはやりたいことをやるのがよいという社会的価値観を無意識の内に内面化した結果であるが、どうやら種々の要因によってこの価値観の優先順位が私の中で最上位に位置しているらしい。

だが、やりたいことで生きていくことを内面化しているのならどうして反発するのか。その理由は自分らしさの称揚が条件付きのものであり、条件から外れた者にはその価値は適用されないからだ。自分らしく生きていくとは文字通り好きなことだけをして生きていけるという訳では決してない。好きなことをしつつも私たちは社会で金を稼がなければならない。つまり、やりたいことで生きていけるのはある人のやりたいことがその時代において金を生める場合に限るのである。この意味で自分らしさの称揚は条件付きだ。このように考えると、私が好きな「自分で本質的なことを考え他人に認めてもらうこと」で金を稼ぐのは難しい。だが、私は好きなことしかできない性分なので他のことをやっても充実感は得られない。不思議なことに、私も他人も好きなことをやっている点では同じなのに、時代に適合しないという自分にはどうしようもない理由で、情報系などに強い他人だけが高く評価されて金も稼げるのだ。

自分らしさの称揚を認める客観的要因

自分らしさの称揚を内面化しつつも、自分のやりたいことが時代で評価されにくいだけで生きてくのが難しいという非合理的な反発が私にはあるというのがここまでの話だ。

だが、私には自分らしさの称揚が自分にとって不都合でも認めざるを得ないと考える理由がある。その理由とは労働の対価として報酬を得る資本主義では提供できる自分の価値が重視されるからだ。主体的個人として自分には何ができるかアピールし、その価値に応じた報酬が与えられるのが資本主義の原則だ。いくら自分が喚いたところで現状の経済システムが資本主義に規定されている以上、やりたいことが時代に適合した人にのみ相応の報酬が与えられるのは仕方がない。これを変えたければ私自身が資本主義以上に優れた経済制度を提案して社会を動かすか、社会に背を向けて自給自足生活でも送るしか道はない。

主観的要因と客観的要因の対立原因は何かー価値判断を中止する

ここまで自分らしさの称揚に反発する主観的要因とそれを認める客観的要因を見てきた。両者は対立するように思える。だが、それは発想の根本においた前提のせいではないだろうか。私たちはよく二項対立を好みどちらかを肯定し、もう片方を否定するという解決策を取りがちだ。だが、二項対立を生じさせている原因を特定して二項対立それ自体を包摂する概念を構想するほうがよいはずだ。思考は基本的により普遍的であったほうがいい。

そこで主観的要因と客観的要因を対立させている前提として私自身が自分らしさの称揚を肯定的に捉えていることが考えられる。自分らしさの称揚が条件依存的だとわかっていながら私には変えようもない社会規範だから受け入れている。では、自分らしさの称揚を肯定するのではなく否定したらどうなるか。残念ながら立場が反転しただけで解決にはならない。今度は主観的要因が反発ではなく称賛に、客観的要因が受容から反発に逆転するだけだ。自分らしさの称揚をめぐる主観的要因と客観的要因が対立することに変わりはない。

さて、どうするか。自分らしさの称揚を肯定しても否定しても対立図式は変わらない。それならば、価値判断をやめて機能面に着目するのはどうか。つまり、肯定も否定も自分らしさの称揚という社会規範に対する私の価値判断なのだから価値判断自体を中止して、自分らしさの称揚という社会規範がどのように生じて機能するのか考えてみるということだ。そもそも社会規範に価値判断を下す以前に社会規範が成立していなければ価値判断の下しようがない。本当は流れ的に価値判断について考えたいところだが、価値判断について答えがでないのなら今は考えるのをやめるべきだ。ここからは素人発想だが、自分らしさの称揚が時代や空間を超越する普遍的価値だとは思えない。人を殺してはならないといった倫理的問題とは議論の次元が違う気がする。したがって、ここからは自分らしさの称揚という社会規範がどのように生じるのか考えていきたい。

自分らしさの称揚という社会規範が生じるメカニズム

まず、「人間は自らが属する社会規範を内面化して行為する」という前提をおく。私たちはある時代のある地域に生まれ、その社会で共有された規範を内面化してやがて一人前の人間と見なされる。社会化という過程である。例えば、日本の小学校では黒板に向かって前向きに全ての机が配置され黙々と先生の授業を聞くことがよいこととされる。子どもたちは無意識のうちにこの規範(ルールと言ってもよい)に従うようになる。

このような社会化の過程を簡単にまとめると、

ある社会規範Xが社会に存在する→その社会に生まれた人間AはXを学ぶ→Xを身に付けると社会から承認される→Xは普遍的に正しいとAは錯覚する(本当は条件付きなのに)→AはXを次の世代Bに伝える→BはXを身に付ける→(以下ループ)

ということになる。ポイントとしては2つある。1つ目は社会規範は原因であるとともに結果でもあるということだ。ある社会規範が社会に存在すると初めに設定すると、社会には非人為的な原初の規範が実在すると思いがちだが、そうではない。これは人間が先か社会が先かという因果性のジレンマである。原因と結果が循環する中ではある現象が原因なのか結果なのか解くことは困難であり無益である。2つ目は社会規範へ反発する者は制裁され、制裁を加えた社会規範の正しさが再確認・強化されることだ。犯罪が社会規範からの逸脱であることが有名な説であるが、犯罪によって動揺した社会規範は犯罪を制裁することによって(犯人を逮捕し裁判し、刑罰を与えるなど)社会規範への人々の信頼を回復しようとする。つまり、ある程度の逸脱者を許容する柔軟さは社会規範に備わっているのだ。

さて、上記のような原因と結果の循環が一度始まればもはや個人の力では止められない。学校で静かに黒板を見て先生の授業を聞くという社会規範も数人の生徒が反抗した程度では変えられない。おそらく1つの学校が崩壊に追い込まれても残りの学校が同じ規範を適用することを社会から承認されれば、結局何も変わらないだろう。このように、社会規範を生成する循環が一度起動すれば社会規範は個人が制御できない自律的な集団現象となる。初めの話に戻るが、自分らしさを称揚する社会規範が私自身に合わないからといってその社会規範自体を変えることは困難なのだ。むしろその社会規範の中にどう適応し、どうすれば自分が望む人生を送れるか考える。その上で、幸運にも自分に社会規範を変えうるチャンスが巡ってきたらどう行動するかを考えることが先決だ。

集団現象に個人としてどう対処するか

では、個人に制御不能な集団現象にどう対処するか。リスク対策の本を読んだことはないが、私は3つの対策を提案したい。1つ目は最悪のケースの被害を最小にするように行動することだ。個人に制御不能な集団現象からは時として個人ではカバーしきれない損失を被る可能性がある。株価大暴落などがいい例だ。だから、失敗が人を成長させるのは確かにそうなのだが、許容できる失敗の程度を弁え、最悪のケースの被害を最小限にできるように進路選択等を行うべきだろう。2つ目は時代状況への向き不向きを客観的に可視化することだ。客観的に可視化するとはウェクスラー成人知能検査などの知能検査を活用するということだ。私も受けてみたが、結果は私が今の時代にはあまり向いてないことを示すものだった。だが、検査が全てではないし、何より客観的に自らの傾向を可視化したことに意味がある。それを生かして自分が社会にどう適合できるか考えていけばいい話だ。3つ目は逃げ道を用意することだ。収入源を分散したり、助け合える人間関係を構築するとよい。収入源の分散には副業や夫婦共働きという手段があるし、助け合える人間関係はプライベート面に限らず転職相談などパブリック面にも存在する。何より逃げ道を用意することは「これがダメでもまだ大丈夫」という心理的安心感をもたらす。この安心感の効果は不確実な時代においてますます高まっているはずだ。

おわりに

これまで書いたnoteで最長の文章になった。先日、知能検査の結果が出た。それでどう活かすか考えているうちに非力な個人が強大な社会にどう向き合うのか気になったので今回のような文章になった。ちなみに、社会規範が生じるメカニズムと社会規範が個人に制御不能になる話は小坂井敏晶(2020)『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫を参考にした。ブログ形式の記事なので厳密な引用をしなかったことは目を瞑ってほしい。

(いや、本当は厳密に引用すべきなのはわかっているが、現在noteを継続的に書けることに主眼をおいているので1つの投稿に手間がかかりすぎることは避けたいのです。ご理解ください、、、。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?