"Each person has his own hell"だけど...

自分より恵まれているように思える人間が吐露する生きづらさをそのまま認めることは難しい。なぜなら嫉妬してしまうから。恋人や学歴、時代に適合的な興味関心と能力、容姿、実家の太さetc.があってどこが生きづらいのか、ふざけたこと抜かしてんじゃねえとなってしまう。自分の人生を1mmも前進させることなくなんなら後退させる僻みにしかならないことを頭ではわかっていてもこういう僻みを叫ばずにはいられない。おまけに自分が他人から同じような僻みを向けられたら「そんなこと言われても私が感じている私の生きづらさは本物だもん!!!」と主観的現実を否定されたことに対して怒り出してしまうはずだ。各人はそれぞれにそれぞれの地獄を生きており、各人がそれぞれ感じている主観的な生きづらさを否定しないことはもはや現代においてリンチを回避するための永遠普遍絶対原則である。

だが、これを僻みの文脈に回収してしまうのは少しもったいないと思う。もう少し味わえる余地がある。この僻みは私が苦しいと言って認めてもらえる場所はないのかという切実な願望と関わっている。この切実な願望を各人の個別的状況の話に代入した場合はケース・バイ・ケースとなって実のある話ができそうにない(何なら身だしなみを整えて清潔感を出し、コミュニケーションをしっかり行うことで友人や恋人を獲得しましょうぐらいしか一般的に言えることがないため)から、今回は社会的状況のほうに話を絞ろう。

社会的状況というのは誰が救済されるべき正当な弱者であるかに関する合意形成からあぶれた人間には弱音を弱音として吐露することが公的には認められないという話である。つまり、社会的弱者にはグラデーションがあり個々人で様々な属性とその程度があり、本来なら全員平等に社会的に配慮されることが望ましいが、あいにく人員や予算などのリソースが有限であるためそうした支援に値する人間とそうでない人間に何らかの境界設定が行われた結果、そうでない人間になってしまった人々は公的な弱者認定を獲得することができず、自力救済の道を歩むしかなくなっていくのである。弱者の中に許される弱者とそうでない弱者が位置付けられる政治的な問題と言っても差し支えないだろう。

ここで公的な弱者認定さえ得られなかった者は全てが自己責任になる自力救済の世界を歩まねばならなくなる。この道のりで自分より恵まれているように見える人間が「生きづらい」と叫び、そこに個人的状況による支援も社会的状況による支援もあるとなれば、そこに形容し難い虚しさと怒りが込み上げてくるのも無理はないはずだ。自分に何の落ち度があってこんな状況になっているのか、他人の生きづらさを否定するなと自分には平等を求めるくせに支援や公的な認定は不平等で自分は不平等側である。こんな自分を助けてもくれない世の中の仕組みに従う動機なんて湧いてもこない。インセンティブがないのである。もちろん自力救済がつらいから他責したいという話ではなく、全て自ら選んで役割を果たしていくことをまっとうすることは受け入れた上でなおモヤっとしてしまうものの中身について今話している。

発達障害などの概念が広まり、かつては甘えや怠惰だと責められていた振る舞いや属性が単なる神経学的多様性の1つとして認知され、能力の欠損やサボりなんかではないのだと捉えられるようになること自体は喜ばしいことだし、適切な支援体制が普及していくことももちろん望ましい。
だが、その影で置いていかれた者たちがおり、彼らが自らの苦しみに公的な承認が得られない叫びをせざるを得ない弊害が生じていることもまた事実ではないだろうか。多様性の尊重が世間一般にとって快適な振る舞いをできる人間だけを認める画一性への圧力であることは5億回繰り返されていることではあるが、社会においてある属性を取り出し、そこに社会的リソースを投入するとき誰をそれに値するものとみなすかという合意を通じた政治的位置付けの問題は回避できない。社会的リソースも各個人が配分できる優しさも有限である以上、必ず誰かが支援体制の必要犠牲になる。そうした必要犠牲にまわっている人々ーー正確に言えば場面ごとに誰が必要犠牲に回るかは異なってくるのでいつも常にある属性の人間を、その人が背負ってきた必要犠牲に報いる形で何か報酬を出すことはかなり困難なのではあるがーーの声があり、彼らはただ自分たちの叫びを封殺されるのではなく認めてもらえる場所を欲しているということ、それを忘れないようにするべきではないだろうか。そうした叫びを自己責任だの僻みだの嫉妬だのと評価して自らの生きづらさにケチをつける不届き者として切断処理してしまうのは簡単だし短期的には正しいが、そうした切断処理が横行してゆく世界のスピードにあなた自身はいつまでついていけるのか、何ならそうした切断処理に耐えつつ後世の人のために戦ってくれた方々のおかげで今あなたはそうした切断処理を快適に行えているのではないのかーそうしたことに思いを馳せる想像力は持っていくべきだろう。

まあこんなことを書いているが実際にできることは個々人がそれぞれやれることをきっちりやっていくだけであり、その時使えるモノは全て使うべきであるから、他人の生きづらさに苛立ちを感じたら目に入れないようにシャットアウトして心の安寧を保つぐらいしかできることはないだろう。

こういう姿勢は他人を価値の共有に足る相手だと見做していない諦めの姿勢になってしまい良くないのだろうが、私には自分の生きづらさに否定的な言動を向けられて感情が逆立たない人間なんていないと思ってしまうため、そんなどっちが可哀想かという不毛な論争を経由することなく、自分のお気持ちより外側に想像力をむけ、誰の屍の上に自分の快適さが守られているのかぐらい考えられるような道筋がないのかなーとか思っている次第だ。案外それは対面で不毛な論争を仕掛けたら意外や意外お互いにしっかり話し合いができて理解が深まることの方が可能性も多そうで、人間のそうした自己反省能力に希望を抱いています。


後より出でて先に断つもの...

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