文脈を付与する人文知

客観的事実に文脈を付与するのに人文知は貢献できるのではという話。なお、人文知とは文化人類学や考古学、民俗学、哲学、宗教学、歴史学などのことをさすが、経済学は少し違うと思うので除く。

事実の特徴

事実とは現実に起こった事柄を指す。解釈に齟齬が生じず、数量化できるのも特徴だ。このように事実は客観的であるから学問やビジネスで常識のように重要視されるものだ。客観性を欠くことなどあるまじきことであるかのように。そして、事実はデータとして処理され、現実世界を理解する参考にされる。

しかし、事実は数量的で客観的であるがゆえに質的で主観的なことを切り捨てざるを得ない。これはしょうがないけれども、主観的領域を抜きにして現実を理屈だけで捉えられないのは当然のことだ。

数量化できない現実

では、数量化できない現実とはなんだろうか。ここでは現実即ち社会は個々人の集合体であり、人間関係の相互作用や行為で構築されると考えたい。すると、社会の主役は人間となるわけだから人間に関する事柄で数量化できないものは何か。

それは人の感情的反応だろう。これも外的反応と内的反応がある。

外的な感情的反応とは自然環境や他人など個人の外側からの刺激に対して示す反応だ。例えば、緑をみるとなんとなく気分が良くなるだとか、特定の人の近くではなぜかパフォーマンスが上がったりする反応などだ。

内的な感情的反応とは個人が心の中で何を感じるかということだ。同じ絵を見た人でも感じたことが全然違うように、人が心の中で何を感じているのかは千差万別で数値化できない。

このような人間の感情的反応が折り重なって社会が作られている面は否定できない。これを無視して現実社会を理解した気になるのは驕りが過ぎる。

では、どのようにこの感情的反応と客観的事実を組み合わせていけばいいのか。1つの手段として私は人文知の活用を提案してみたい。

生の声に耳を傾ける

人文知に含まれる諸学問は最初に明記した通りだ。そして、私が人文知に注目した理由は長い長い文系不要論に自分なりの反論を立ててみたかったからだ。「文系も必要だ」と主張するだけでは声だけ大きい無能と変わらない。提案して実行できなければ意味はない。

先ほど事実は感情などの主観的領域を切り捨てると記入したが、これはつまり事実を文脈から切り離すということだ。文脈とはその事実が起こった自然環境や社会制度、共通の価値観、事実に人々が見出す象徴性など広い意味での背景だ。

実は人文知はこの文脈を取り扱う学問だと言うことができる。文化人類学はフィールドワークで研究対象の社会に飛び込み、一次情報を獲得してくる。考古学は遺物から人々がそこに込めた意味や思想を読み取るし、民俗学も無形の伝承などから生活を浮き彫りにする。さらに、歴史学の心性史という分野は人々の思考様式や感覚を文献以外の資料も活用して明らかにしていく。

このように、人文系の学問には生の声に耳を傾ける特徴がある。この特徴を自然科学との対比で人文知は主観的なことに着目すると認識するのではなく、主観的なことに着目するがゆえに文脈の再構成に特化していると認識してみるのはどうだろうか。言葉遊びかもしれないが、それでも人文知の活用法が少しは思いつくようになるはずである。

終わりに

文系が全て大学から消えた未来をみてみたいと思う一方で、人文知の必要性を根拠もなしに主張できない文系学生は消えるべきだと思ったので、私なりの意見をまとめてみました。

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