学べない凡人のジレンマとコミュ力台頭

複雑な世の中において凡人は自分で考えるより、凄そう(ボキャ貧)な人の考え方や方法論を真似たがるのも無理はないという話。

世の中複雑すぎて理解できない

「これからの時代は複雑で予測不可能な時代でありー」といった話はよく聞く。これを表す言葉としてVUCAなるワードがあるほどだ。Vがvolatirity(変動性)、Uがuncerntainty(不確実性)、Cがcomplexity(複雑性)、Aがambiguity(曖昧性)だそうだ。要するに、普通にみたら世の中の仕組みも動向も簡単には理解できないって感じだろう。だが、そう悲観的になったところで意味はない。私はこの世の中で生活費と娯楽費を稼いで生きていかなければならない。だから、世の中の原理や動向について学んでおくことが損になるはずはないのだ。経済や数学、科学、思想でもなんでもいいから学んでみようと決める。


まあ、そんな単純ではないのだ。1つの学問ですら一生かけて修められるか怪しいのに複数の分野について世の中の原理を見抜けるレベルまで学ぶ。これが普通の大学生である私にできるはずがない。まだ東大や京大に受かるほうが現実味が高い。

ここまでは雑に書いてきたが、どうやら現代は世の中の事象やその背景の原理を学んで適切に活用することが極めて困難なようだ。なぜなら世の中の事象は大抵経済や政治など複数の分野にまたがる事柄であり、1つの学問分野から捉えてみても見落としが出てしまう。さらに、1つの学問分野の諸概念や技法を果たして自分が正しく理解できているのか確認するのが極めて難しい。初学者から見ると、ある1つの概念の定義は書籍によってかなり違うものに見えてくる。なぜ定義の違いが生まれるのかわかるように学んでいくのが王道だろうが、そこまでやれる人はどれくらいいるのか。大半はどの定義がわかりやすく好ましいかという選択ゲームになりがちかもしれない。

学ぶと言うが簡単ではない

このように素人には学んでみても何が正しいんだか判断がつきにくい、つかないということが割と起こりうる。例えば、昨今Twitterランドを賑わせるフェミニズムにまつわる論争や負の性欲などをめぐる論争を見ていても何が正しいのか、どこが論点なのか、なぜここまで燃えるのか正確に把握するのは容易ではない。

では、専門家に頼ればいいではないかという意見は最もだが、これも難しい。専門家の意見を鵜呑みではなく批判的に吟味できるレベルの頭脳がある人は意外と少ない。反ワクチン運動や水素水の流行を見ると、専門的な知識にアクセスしようとする人がそもそも多くはなく、違和感を感じ取れるだけでかなり思慮深いほうに分類されるだろう。

凡人は易きに流れる

こうなると凡人には自分で物事を批判的に考えていくことは極めて難しいのではないかと思える。自分で考えたところでどこかの誰かが既に優れて(いるように見える)答えを持っていて、それを活用したほうが成功しそうだと思ってしまうのも無理はないかもしれない。真面目に学んだところで世の複雑さについてけないなら学ぶのはめんどくさい。楽をしたい。ーーーこれが凡人すなわち受験勉強をまあまあこなせてきた並の知能の持ち主が行き着く発想ではないだろうか。(そこそことはセンターで7,8割ぐらいの人を想定している。)

だが、人間は厄介な生物で、物事を理解してスッキリしたい、納得できるような説明を受けてスッキリしたいという欲を持っている。頼まれてもいないのに、わざわざ考えを述べてくる人がインターネットの海にはたくさんいるし、それっぽい意見はバズってトレンド入りする。

このような凡人の行き着いた発想と説明を求める人間の本能が生んだ傑作がわかりやすい解説動画や書籍だと私は考えている。「10時間で経済学がわかる!」といった本や池○彰氏の著作、オ○ラジ中○氏のYouTube大学などがそうだ。

これらの動画や書籍は視聴者と読者に納得感を与えてくれる。「リーマンショックの背景はこうだった!」「戦後世界の歩みは簡単に言うとこうだ!」ーーーどれもこれも複雑に思える社会や歴史を分かったかのような爽快感を得られる。しかも、学校の授業より遥かにわかりやすい。"聞いてるだけ"で理解できる。これからは動画で勉強していこうーーー

こうした流れが昨今の教養ブームの潮流の1つになっているのは間違いない。YouTubeや書籍には質の高いコンテンツも数多く存在するだろうに、凡人は自ら学んでも損だと実感しているので楽して納得欲求を満たしてくれるコンテンツにばかり注目するのである。私自身、このnoteで白饅頭という方のコンテンツを購読して納得感を得ている凡人である。頭使うのはめんどくさいし、どう使ったらいいのかわからない。意見を表明したところでレベル0の私を嬉々として叩いてくるレベル100の猛者どもがインターネットには多数存在する。

広がり続ける頭脳格差と凡人の処世術

もはや凡人は世の中の複雑さに学びながらついていくのは困難だが、納得欲求は消えてくれない。この凡人のジレンマを絶妙に捉えたのが単純な解説をする書籍や動画ではないかというのがここまでの話だ。

世界の複雑さに対応できる頭脳はもはや金や容姿を超える資産となった。加えて、コミュ力向上が叫ばれて久しいのを鑑みれば、コミュ力と頭脳という資産が今後の資本主義社会で勝ち上がる重要な要素だと私は感じている。

もしそうなら凡人の処世術はコミュ力を上げていくことにしかないのではないだろうか。頭脳は手に入らないが、コミュ力ならまだ手に入る余地がある。一部の超優秀な人が社会を動かす中でその歯車としてうまく立ち回るにはコミュ力がますます重要になるだろう。周りは並の頭脳を持った凡人で自分も凡人。頭脳で差別化はできない。だが、人間の社会で序列化は回避できない。差別はいけないとか言ってるが、人間社会に差別が存在するのは当然な面もある。

こんな感じで、序列化の要素としてコミュ力が日の目をみる時代が既に幕を開けたのかもしれない。サークルで異性とも仲良くし、社会では周りを巻き込めるような人の未来は明るい。

だが、女性とまともに話せずもちろん彼女もいない、休日はお布団でもふもふのインドア派、服はユニクロで人と盛り上がるのが苦手な人間(そう、私)にはつらいつらい時代である。荒れ狂う社会という荒野に数年後出なければならないと思うと気が滅入るなーと思いながら久しぶりのnoteを終える。


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