余裕のなさで増す息苦しさ

毎日文章を書くのは私にとってハードルが高いらしい。だが、今回はここ数年何となく感じていたことが「余裕のなさ」と「息苦しさ」でつながったので書いておきたい。多くの人が耳にしたことある話ばかりだろうが、大切なことは他人が既に考えたかどうかではなく、私自身がどう考えたかなので気にせず書いていこうと思う。

漠然とした正しさが人々を縛る

COVID-19が流行し、毎日暗いニュースが報じられている。twitterなんて少し前までは「100日後に死ぬワニ」や「だいしゅきホールド」の起源を巡るバトルで盛り上がっていた。こうしたくだらない(と言っては失礼だが)ことに注意が向く平和な状況だった。それが今や毎日ギスギスしていて精神衛生上よろしくない。程度差はあるが、誰もが確実に余裕をなくし始めている。

今回のCOVID-19騒動で再確認したことは、誰もが漠然と正しさを求めた結果、その正しさが暴走して人々を拘束するということだ。
緊急事態宣言が発令され、国や自治体から自粛要請が出ている中で営業している店舗への誹謗中傷は止まず、パチンコ店に関しては店名が公表された。さらに、感染者の家族までもが周囲から袋叩きにされる事例もあった。

このような民間警察、コロナ自警団、お気持ち警察などと呼ばれる現象は端から見ていれば馬鹿らしい話だ。だが、この悪魔を生み出したのは他ならぬ私たち一人一人ではないだろうか。

「COVID-19に感染して死にたくはない。だって、命が何よりも大切だなんて”誰も反対できない(しづらい)”当然のことでしょう?」といった曖昧な判断で人々は自らの命を守る行動に出る。個々人がより快適で、正しく、美しい世界を求めること自体は何も問題ではない。
問題なのはその漠然とした願望を実現する手段と過程だ。多くの人が短期間のうちにCOVID-19とそれに伴う経済停滞による命の危機に晒された結果、誰もが生き残りを目的として行動するようになった。だが、目的が同じでも手段まで同じとは限らない。ある人にとってはCOVID-19それ自体にかからないために自粛することが生存のための最適解となる一方、別の人にとってはCOVID-19にかかるリスクを背負ってでも経済活動を継続することが生存のための最適解となる。命vs経済ではなく命vs命の構図だ。

こうして誰もが生存を目的として行動しているはずなのに、自分側とは違う手段をとっている人が敵に見えてしまう。「奴らはこの非常事態にも関わらず、公共の利益に協力しない不届き者である。絶対に許してはならない!」といった調子で。

その結果、漠然とした正しさでお互いを監視しあい、正しくない者がいれば光の速さで袋叩きにし、自分の陣営の正しさを強化する日々が始まる。
出口の見えない非常事態でストレスがたまる中、わかりやすい敵がいれば、ストレスを解消しつつ自分が正しいことをし続けていると確信できる。
袋叩きはCOVID-19に限らず、非常事態下における一石二鳥の営みだ。
以下では、このような正しさにまつわる対立を「正しさの信念対立」と呼ぶことにする。

正しさの信念対立の悪質な点は間違っているとわかっていても個人の力では止めようがないところにある。正しさからはみ出せば即座に叩かれてしまう。自分の身の安全が最優先だから、間違っているとわかっていても周りの正しさに合わせておくほうが安全だ。トイレットペーパーの買い占めの時と同じで、店頭に商品がないだけで在庫があるとわかっていても、一部の勘違い人間が買い占めた結果、自分が買えなくなるのは困るから結局は多めに買ってしまう。こうして個々人の力では買い占め騒動は止められない。悲しいことに、客観的に見れば一部の勘違い人間と正常な人間の行為は同じものになる。

無能は切り捨てられて当然

話題をCOVID-19関連から変えよう。背景にあるのはCOVID-19と同じく余裕の無さだが、今度は生存をかけた余裕の無さではなく経済的資源の余裕の無さだ。

日本が長年の間不況に襲われ、人々の生活が一向に楽になった感じがしないという話は耳にタコだろう。この経済的余裕のなさから無能は切り捨てられて当然という風潮が蔓延している。つまり、社会的に有益な価値を提供できないというのは個人の甘え以外の何物でもなく、どんな状況に陥ろうが自己責任であるというわけだ。私自身はこの風潮が大嫌いだが、ここでは自己責任論の妥当性を検討するのではなく、この自己責任論の背景には2つの要因がある可能性を述べたい。

1つ目の要因は先ほどから繰り返しているように、無能や出来損ないを抱えられるほどの精神的・経済的余裕が無いことだ。人や金などの資源は有限であり、有限な資源をより能力が高い人間に配分すること自体に私は反対しない。私たちは何かを選択しその代わりに何かを切り捨てることで日々を進めていかなくてはならない。選べるものが有限である以上、選んだものから出来るだけ大きな利益を獲得したいと考えるのは自然なことだ。

ただ、分配元の資源自体が減少すればするほど、または資源を欲する人間が増えれば増えるほどに資源の分配からあぶれる人間は必ず出てくる。資源自体の減少は例えば会社の資金に余裕がなくなれば、それだけ正社員を雇用するのは難しくなる。だが、人手不足は何とかしたいとなれば非正規雇用が増える。資源を欲する人間とは社会保障に頼る人々のことだ。高齢者が増えれば医療費は嵩むし、不況下では生活保護受給の希望者も増える。

全員を救えない以上、救えない理由を正当化する必要がある。その結果の1つとして、無能に対する風当たりが厳しくなっているのは間違いないと考えられる。

2つ目の要因は既得権益を手放したくない者がいるからだ。自己責任論を唱える側はいわゆる勝ち組だ。勝ち組が勝ち組であるためには、負け組である無能が必要不可欠だ。したがって、自らが勝ち組でいられるルールを温存しなくては今度は自らが負け組になってしまう。何としても負け組になるのは避けたいと考えるのは誰でも同じだろう。自分に有利なルールを手放すお人好しなどそうそういないし、ここまで余裕がない社会ではその利己的な傾向は一層強まる。勝ち組が勝ち組でいられるルールとは例えば学歴で就職が有利になったり、正社員のほうが非正規雇用より待遇がいいといった慣習のことだ。学歴で就職が不利になった人は勉強しなかったのが悪い。非正規雇用で収入が低いと嘆くのはその程度の実力しかないのが悪い。全ては自己責任だ。雑だが、こんな感じだ。

有能ならば相応の対価を得て当然

今度は「無能は切り捨てられて当然」の裏返しである「有能ならば相応の対価を得て当然」という考えについても見てみよう。ここ数年、常人離れした才能や技能を持つ人間が称賛される傾向が強い。特に、発達障害者などの持ち上げ方は異常なほどである。通常、人間は程度差はあれど自らの社会でマイナスと判断される障害を差別する。「自分は障害でなくてよかった」、「普通の人ができることさえまともにできない人なんて迷惑だ」といった感じで。私もこのような考えを抱いたことがないと言えば嘘になるので、批判できる立場にないのは承知している。

だが、なぜ普段は障害をマイナス評価して差別するマジョリティ側の人間が、圧倒的才能や技能を持つ発達障害者などだけを称賛するのか。障害を有する人間はマジョリティからすればマイナスをもたらす嫌な存在ではないのか。あえて強い言葉で書くなら、関わりたくないし視界に入れたくない存在ではないのか。

私はこの現象が奇妙で仕方なかったのだが、上述した余裕の無さと既得権益への固執の2つにより説明がつくと考えるようになった。つまり、余裕がない中でもせっかく普通の人間(マジョリティ)にとって快適で正しく、美しい社会が維持できているのに、それを乱す負債(マイナス)を背負った障害者がこちら側(マジョリティ側)に入りたいならば、自らが抱える負債を帳消しにしてなお余りある成果(プラス)をこちら側の社会に還元してもらわねば割りに合わない。こちら側がマイナスを背負う覚悟をしているのだがら、障害者側もマイナスのままでいられては困るのだよ。
余裕の無さと既得権益への固執を正当化する傲慢な思想が、有能な人間への過剰な称賛には潜んでいると考えられる。

いつ死ぬかわからないから楽しく生きようも息苦しい

さて、これまでは私が感じる3つの息苦しさの背景を考えてきた。ここからは過去ー現在ではなく、現在ー未来に視点を移して行きたい。未来予言をしたいのではなく、望ましくない展開を論理的に考えていきたいのだ。望ましい展開なんて訪れないのだから望ましくない展開に備えておいたほうが精神衛生上良いというのが私の信条だからだ。

今後、私が望ましくないと考える展開は「いつ死ぬかわからないから楽しく生きていこう」という考えが本格化する展開だ。COVID-19の流行で私たちは死を身近に感じるようになったはずだ。医療の進歩により治療可能な病気が増え生物としての死が遠のいただけではない。不況だなんだと数十年叫ばれながら何だかんだ日本は崩壊していない。こうした無根拠な楽観論もあって、経済的に困窮した結果としての死も常に意識されていたわけではないだろう。

COVID-19はこうした平和ボケにとって寝耳に水だった。ウイルス1つで世界は危機に直面する羽目となった。世界にとっての危機だ。

ここからは論理が飛躍するが、私は歴史が好きなこともあって、「危機」と聞くと「危機的状況にあってこそ人類はいかに生きていくべきかを考え、より良い未来を目指して歩んできた」という歴史教科書お決まりのフレーズを思い出す。ルネサンス、ペスト流行、明治維新、諸革命、世界大戦などの危機においては必ずと言っていいほど今後の指針が求められる。これまでのやり方が通用しない未来をどうやって生きていけばいいのか誰もが知りたいからだ。

こうしたパターンを現在に適用した時、私は「いつ死ぬかわからないから一人一人が本当にやりたいことをやって生きていこう」という風潮が本格化しそうだと感じている。登場ではなく本格化と書いたのはCOVID-19流行以前から個人の時代が叫ばれ、一人一人がやりたいことを見つけ、それを指針として仕事を選び人生を進めていくのが良いという考えはあったからだ。(この考えを実現できるのは一部の実力ある人間だけであろう。そもそもこの考えだって成功者のポジショントークで彼らの既得権益を正当化するルールを社会に浸透させたいだけに思える。この考えに乗っかっても成功しなければいいカモ扱いされるだけだ。)
愚痴を止められなかったが、個人の時代という下敷きにCOVID-19が示した命の大切さが加われば、一人一人が貴重な人生を望むように生きていくことが漠然とした正しさを帯びるようになるのは十分ありうる展開だ。

個々人が好きなように、やりたいように生きていく。これ自体は素晴らしいことだ。私だって働かずに不労所得でゲームと読書と旅行だけしていたい。不労所得で推しに貢ぎまくる生活を何度夢見たことか。

私がこの展開を望まない理由は個々人のやりたいことが肯定されるのは社会にとって有用であるという条件付きだからだ。金にならないことがやりたい人間の肩身は狭くなるだけだし、やりたくないことでも自分を騙して金を稼ぐしかない。ただでさえCOVID-19が流行する前から金にならないことへの視線は厳しいのに、これがさらに本格化するとしたらもう最悪だ。

なお最悪な展開としては、個人のやりたいことが社会にとって有用であるという風潮と若い世代が日本のツケを払わねばならない状況が手を組むことだ。つまり、若い世代は偶然厳しい状況の日本に産まれただけなのにこれまで先送りされてきたツケを払わされる挙句、ツケを払うための金稼ぎに「個人に最適で最高な生き方」という"美しい"物語が添えられた結果、日本の若い世代の奮闘は結局のところ上の世代や次の世代から見れば都合の良いツケ払いをさせられているにすぎないという可能性がある。一部の無責任な上の世代が「いやー最近の若い人間は生き生きとしていていい。日本の未来は明るいなー」などど言いながら、申し訳なさなど微塵も感じず、「一人一人に最適な生き方が正しい」という風潮のもとで抜け抜けと楽しく生きていくのだろう。
なんて美しい物語だ。素晴らしすぎて涙が一滴は出る。これほどの傑作、映画化でも小説化でも何でもして日本の輝かしい歴史の1ページに刻まねばもったいない。(こんな展開絶対に実現してほしくないし、美しいなんて1ミリも思わない。暗黒時代だ。)

口が悪くなったが、ここで私がお気持ち警察になったら出来の悪い喜劇もいいところだし、上の世代の糾弾といった集団の責任を問う現象自体がお気持ちの精算にすぎない無意味な営みだ。お気持ちはお気持ちとしてここに文章化して頭の外に出しておきたい。

まとめると、今後私が最悪も最悪だと思う展開は、個々人のやりたいことが経済的価値で測られる傾向がさらに加速した結果、金をうめない無能への風当たりも増し、自己責任論で潰され誰も救いの手を差し伸べてはくれないというものだ。

おわりに

余裕の無さと息苦しさという軸で3つの現象の背景を考え、今後の最悪な展開も想定してみた。勘違いしてほしくないのは、私だって楽しく生きていたいし、世の中を動かそうと実行に移している人のことを冷笑したいわけでは決してない。ただ私のやりたいことや特性が尽く現在の時代状況に適応していないがために、つい世の中が嫌になるだけなのだ。

今回のCOVID-19騒動で以前とほぼ変わらない生活を送れている私はとんでもない幸せ者だ。このことだけは親や祖父母、大学、友人、そして何よりも働いてくださっている方々に感謝してもしきれない。

世の中には自分の上位互換がいくらでもいて、不器用で何の成果もない自分が嫌いになるし、生きていくのがめんどくさくて堪らない。だが、生きていくしかないのでこの自粛期間にくだらないことで笑える正常な精神を維持しつつ、できることをできる範囲で積んでいきたいと思う次第だ。


もし私が想定した最悪の展開が半分でも実現した暁には美味しいお酒でも飲んで、「世の中美しいーー」と負け犬の遠吠えをしたい。

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