素朴な進歩主義の先は”正しい”社会か

例年より長い梅雨がようやく明けた。久々に見る青空に私の気分は高揚した。だが、考えていたことは例の如く明るくない。
今日は梅雨明けを祝して僭越ながら私(わたくし)が祝辞を述べさせていただこうと思う。

1.はじめに

 昨今ではポリコレ運動やフェミニズム運動などが盛り上がりを見せている。これらの運動はより良い社会を目指して日々立ちはだかる壁と死闘を繰り広げている。
 こうした運動があること自体は歓迎すべきことだろう。既存の社会体制に抱いた不満を広く社会に訴えることは社会の新陳代謝を促すという利点がある。

 だが、より良い社会を実現しようとする我々は本当に望ましいより良い社会を実現できるのだろうか。最近のポリコレ運動などはあまりにも直感的に善悪の判別をつけ、自らの正しさを疑うことなく暴走しているようにも感じる。

 そこで、本稿では我々一人一人が抱く素朴な進歩主義の考えがより良い社会をもたらすのではなく、むしろさらに息苦しい社会をもたらす流れを論じ、正しすぎる社会で人間は生きていけないのではないかという結論を導く。

2.素朴な進歩主義が”正しい”社会を作り出す

 まず用語の定義から始める。
 「素朴」とは「自らの直感が普遍的に正しいとは限らない可能性を疑うことがない姿勢」のことだ。例えば、ある大企業で男性社員が後輩の女性社員に出世をチラつかせて性的関係を迫ったという事件を知った時、「上下関係を利用して性的関係を迫るなんて絶対に許されるべきではない」という直感を疑うことがないような人間が「素朴」だ。「素朴でない」とは自らの直感を「待て待て。確かに上下関係を利用して性的関係を迫ることは許されるべきではないかもしれないが、メディアの報道の仕方が悪いだけの可能性もあるではないか。」などと自覚的に保留できる態度のことだ。

 進歩主義とは「社会は紆余曲折あろうとも現状よりより良い方向に進む」という信条のことだ。この進歩の考えを歴史に応用するとsociety5.0のような歴史の見方が生まれる。「人類は狩猟採集の時代から農耕を経て工業化を達成し、情報社会を達成した。」のように歴史は段階を経るごとに発展してきたとする歴史観である。

 また、本稿で”正しさ”のように””が使われる場合は「””の間に入る内容は直感的には普遍的かつ絶対的に思えるだろうが、本当にそうか疑って見てほしい」ということを意味する皮肉だ。例えば、”正しさ”とは「そんな正しさはあなたの個人的な経験に由来する直感的判断が普遍的かつ絶対的だと盲信した結果であって、実際には正しくも何ともなくお気持ち表明に過ぎないので可能な限り自重するか、建設的な議論をするきっかけに留めたほうがいいのではないだろうか。」ということを意味する。


 用語の定義は以上にして、本題に移ろう。
 我々はなぜか現状よりもさらに良くしていこうという進歩の考えを疑うことなく内面化している。個人レベルではスポーツや勉強で昨日できなかったことを今日はできるようにしようと試行錯誤する。社会レベルでは常に貧困や格差などの社会課題や地球温暖化などの環境問題を解決しようとしている。
 歴史的に見ても我々は数々の”進歩”を成し遂げてきた。近代に入って人類は自然権の概念を発明し、人権思想を普及させた。科学技術も大いに発展したし、公共空間から体臭などの悪臭を徹底的に排除することにも成功した。このような”進歩”の具体例は枚挙にいとまがないが、少なくとも我々は歴史上でかつてないほど”清潔で、快適で、正しい”社会を築き上げた。この”清潔さ・快適さ・正しさ”のアップデートは現在も進行中である。

3.”正しさ”は社会の構成員となるための資格

 だが、”清潔で、快適で、正しい”社会の成立は”清潔さ・快適さ・正しさ”に適応できる人間だけが社会のまともな構成員として認められることを意味している。社会の”正しさ”についていけない人間は社会の構成員の資格なしとして排除されるのだ。
 
この現象自体は人間社会に共通して見られる仕組みであり、問題ないと考えられる。なぜなら、人間は他者を自らの集団の構成員として承認する際に、他者に集団固有の規範を遵守するよう求めるからだ。規範とは「〜すべし」と命じるもので破れば制裁を受ける。この規範が現代社会では「人権に配慮すべし」などの形式をとって”清潔で、快適で、正しい”社会の構成員を選別している。現代社会の規範に適応できない人間は社会的地位の喪失などの制裁を受けて構成員の資格を剥奪される。実際に、人種差別的な発言をした政治家は異常なまでに糾弾されるようになったし、優生思想を個人の見解としてツイートした某有名バンドのメンバーはTwitterで激しい物議を醸して非難された。

 このようにして社会で共有された”正しさ”はやがて常識と呼ばれるようになる。「常識的に考えてこうすべきでしょ?」「普通に考えてらこうであるべきだ」などと人々が口にするときの「常識的に」「普通に」とは社会で実現された”清潔さ・快適さ・正しさ”を無意識レベルで内面化した結果の言葉だ。
 なぜ私が”清潔さ・快適さ・正しさ”を常識の同義語だと考えるかといえば、世間の常識を破れば何らかの制裁があるからだ。つまり、常識は制裁を伴う規範であり、この性質は”清潔さ・快適さ・正しさ”が社会の構成員を選別している仕組みと共通するからだ。

4."正しさ"は不可逆

 ここまで個々人の素朴な進歩主義によって社会には一定水準の”清潔さ・快適さ・正しさ”が成立し、それらを満たせる人間だけが社会の構成員の資格があることを論じた。


 実は社会の構成員を選別する”正しさ”にはもう1つ特徴がある。それは”正しさ”は不可逆であるということだ。1度実現した”正しさ”が破棄されることはまずない。少し想像してもらいたいのだが、我々は明日あるいは数ヶ月後から”不潔で、不快で、間違った”社会に生きることはできるだろうか。具体的に言えば、人々が互いの体臭や口臭のケアをせず、たばこは町中至る所で吸われ、人権概念を放棄して奴隷制や男尊女卑を無条件に肯定する。他にも普段から使っている便利な電化製品は全て使えなくなるし、スマホも5G通信も使えなくなる。ーーーこのような世界に我々が戻ることは不可能に近い。
 このように人間は1度手にした”清潔さ・快適さ・正しさ”を放棄できない。知ってしまったが最後、知らなかった状態に戻ることはできない。戻ることは我慢を意味するが、人間はそんなに我慢強い生物ではないだろう。

 人間が1度手にした”清潔さ・快適さ・正しさ”を放棄できない理由は他にもある。それは社会で実現した”清潔さ・快適さ・正しさ”は規範として機能するので、1人だけでは”正しさ”の規範から降りることはできないからだ。先ほども述べたが、規範には制裁がつきものである。ゆえに、1人で規範から降りるすなわち規範から逸脱すること自体は個人の自由だが、その自由の代償として制裁を受けることは自己責任となる。「お前が1人で社会の”正しさ”に不満を抱いて反抗する分には自由だが、自由には責任が伴う。その自由を行使して逸脱をするのであれば対価として制裁はきっちり受けてもらう。制裁を受けることに文句は言えない。自己責任だ。」というわけだ。

 したがって、1人だけで社会の”正しさ”を過去の状態に戻そうとするのは不可能だ。ある程度の人数で同時に社会の”正しさ”から逸脱して、彼らが所属していた社会の規範が持つ恒常性を一気に破壊しなければならない。もちろん学校内の特定の学級や会社の特定の課などの小規模な社会であれば社会の”正しさ”は過去の状態に回帰させられるかもしれない。しかし、悪臭の排除や人権概念の普及など社会全体に及ぶ”清潔さ・快適さ・正しさ”に関してはやはり不可逆だ。今日激化しているポリコレやフェミニズムの運動を鎮静化したければ、原理的には人権登場以前の世界に戻る必要があるが、そんなことが我々にできるはずもない。人権概念が根底から崩壊することは我々がわざわざ言語化するまでもない常識まで崩壊することとイコールである。そんな世界に我々は戻りたいと思うだろうか。私は思わない。

5.”正しい”社会を我々は本当に望むか

 社会の構成員を選抜する”清潔さ・快適さ・正しさ”が成立すること自体は仕方がない現象だ。問題は”清潔さ・快適さ・正しさ”が不可逆であり、永遠にアップデートし続けようとすることだ。つまり、私たちは一人一人の素朴な進歩主義によって、自分が社会のまともな構成員として認められるハードルをどんどん高めており、しかも多くの人は自分が社会の構成員失格となるリスクを高めていることに無自覚なのである。
 社会の構成員として承認される”正しさ”のハードルが高まることは息苦しさをもたらす。なぜなら、自分がいつ社会の”正しさ”から逸脱して制裁を受けることになるか常に怯えなければならないからだ。社会が”清潔で、快適で、正しく”なるほどに汚点が際立つようになり、”正しい”人々はその汚点を排除することに余念がない。

 自分の何気ない言動が思わぬ形で理解され、社会の”正しさ”への反逆だと見なされる可能性がある。例えば、2017年に男子大学生が家庭内暴力に苦しむ中学1年生の女子の保護に尽力したとして警察署から感謝状を受け取った出来事があった。もちろん家庭内暴力に苦しむ女子を救った男子大学生の行動は称賛されるべきだ。だが、見方をズラしてみよう。記事にあるように、この男子大学生は大学の後輩の女性を呼び、自分の自宅で女子学生の話を聞いたようなのだ。

ーーーもしこの男子大学生が後輩の女性を呼ばずに中学1年生の女子を自宅に招いていたらどうだろうか。ほぼ大人である1人の男性が赤の他人である未成年の女性を自宅に連れ込む。なかなかに犯罪臭のする出来事である。卑猥な行為に発展した可能性を疑わずにはいられない。
 このような犯罪の疑いがなかったのは、男子大学生が後輩の女性を自宅に呼んだからである。未成年の女子に加えてほぼ大人の女性がいる。それだけで加害者の男性と被害者の女性というお決まりの構図を払拭でき、男子大学生は困っている人を助けた素晴らしい人物になることができた。この出来事を以上のように解釈することはできないだろうか。

 ある日突然、困っている人を見つけ、完全なる善意からその人を助けるために自宅に呼んだ。ただそれだけのことが”正しさ”のアップデートが進んだ現代社会では糾弾の対象になる可能性を孕んでいる。もし今回女子生徒を自宅に招いたのが男子大学生ではなく中年の男性、いわゆるおっさんであったなら一発アウトに違いない。いくら女子生徒の保護につながって結果オーライであったとしても、世間から素直に称賛されはしないだろう。むしろ善意で人助けをした中年の男性が未成年の女性に何らかの加害行為をしたに違いないと決めつけられ、謂れのない誹謗中傷を受けることは間違いない。


 このように素朴な人助けでさえも自分のリスクを高める社会は本当に望ましいのだろうか。私は望ましくないと思っているが、多くの人々は身の回りから”不潔で、不快で、間違った”存在が消滅するから素晴らしいと思っているのだろう。だが、こうした考え方にも盲点がある。人間は正しすぎる社会で生きていくことはできないということだ。 

 この好例が日本史にある。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼こひしき」という江戸時代の狂歌である。「白河」とは陸奥国白河藩出身の松平定信を指す。江戸幕府の老中田沼意次は商人の力を利用しながら幕府財政を思い切って改善しようとしたが、幕府役人の間で賄賂や縁古による政治が横行する事態を招いた。田沼意次が退いた後、老中に就任した松平定信はそうした幕府財政や政治の引き締めを図る寛政の改革に着手した。具体的には、松平定信は出版統制令などで政治への風刺や批判を抑え、風俗の刷新も図るなど極めて”清く正しい”政策を行った。しかし、それが民衆の反発を招いた。このような”正しい”松平定信の政治に対して、腐敗政治であったとしても華やかだった田沼意次の時代を懐かしんで詠まれたのが上の狂歌である。正しさだけの世界で人は生きていけない。清濁合わせ持つのが人間社会だ。

 ところが、”正しさ”のアップデートが進んだ方々は人間が正しさだけでは生きられず、悪も必要であることをわかっているかのような振る舞いを見せる。先ほど彼らの盲点は「人間は正しすぎる社会で生きていくことはできない」ことであると指摘したばかりだが、彼らはそれを意識的に自覚しているわけでは恐らくない。もし自覚できているなら素朴な進歩主義を盲信したりしないはずだからだ。彼らは「人間が正しすぎる社会で生きていくことはできない」ことを無意識のレベルでわかっており、その無意識の欲求にいかにも”正しい”主張を纏わせることで”清潔で、快適で、正しい”社会におけるガス抜きをしている。”正しく”あろうとするストレスの蓄積で自我が狂う前にそのストレスを抜いているのだ。
 そのガス抜きの1つの形態こそ「おっさん叩き」である。「おじさん」ではない点に注意してほしい。よく若い女性が「おじさん好きー」と言うのをテレビが放送しているが、そのおじさんとはイケメンな中年俳優の方々や清潔感があって仕事もできる職場の中年男性を指している。決してそこら辺にいる中年男性一般を指しているのではない。ここを勘違いすると地獄を見ることになる。

 なぜ「おっさん叩き」がガス抜きになるかと言えばおっさんは不快な存在だと多くの人が承認しているため、叩いても問題ないとされるからだ。おっさんの一般的なイメージとは「ハゲていたり、加齢臭がするなど不快であり、老害じみた言動でセクハラ・パワハラを平気で繰り返すイタい人間」といったところだ。彼らおっさんは”清潔で、快適で、正しい”社会において排除されるべき”不潔で、不快で、間違った”存在であると多くの人間が素朴に認めている。ゆえに、いつ自分が社会の”正しさ”に違反するかに怯え、自分が正しいのか間違っているのかわからないストレスを貯めた人々にとって「おっさん叩き」は最高のイベントになる。なぜなら、「おっさん叩き」は「おっさん」を叩くことで社会の正しさに迎合して安心できる上に、「おっさん」という敵を叩く自分に絶対的な正しさを保証して不安やストレスを解消するのにも役立つ一石二鳥のイベントだからだ。大変便利なイベントである。

 長くなったのでまとめる。我々が追求してきた”清潔さ・快適さ・正しさ”が実現した社会で生きるためにはそれに適応していく負荷が同時にかかる。その負荷が大きくなると我々は息苦しさを感じるようになる。息苦しさをもたらす社会の”清潔さ・快適さ・正しさ”のハードルを下げられれば良いのだが、このハードルは不可逆なので下げることができない。しかも人間は正しすぎる社会で生きることができない。ゆえに、人間は社会で排除されるべきだと承認されやすい対象・出来事を見つけ叩くことでガス抜きをするのだ。

6.おわりに

 素朴な進歩主義に突き動かされ、一人一人がより良い社会のために何ができるか考え、実行した先にある社会とはアップデートされた”清潔さ・快適さ・正しさ”に適応できる人間のみが生きていける社会だ。適応できる人間にとって社会は”美しくて素晴らしい”と映る一方、適応できない人間にとって社会は”醜くて息苦しい”と映る。社会が課すハードルに適応できない人間は淘汰されていく。適応できた人間は淘汰された人間を自業自得だと叩き、自らの”正しさ”への確信を深めていく。


 一見、このような”正しさ”選別は終わることがないように思える。だが、終わらないのはホモ・サピエンスという種が宇宙に存在し続ける限りという条件付きの話だ。私は”正しさ”選抜がもたらす社会の息苦しさは出生率の低下をもたらすだろうと考えている。理由は簡単で、せっかく子どもを生んでもその子どもが社会の”清潔さ・快適さ・正しさ”に適応できなければ不幸になるからだ。そのハードルを超えられるほどの子育てができる自信があるだろうか。私にはない。
 つい先日、優生思想が激しく批判されることになった事件があった。この話も社会でまともに生きていけるだけの人間すなわち容姿が整っていて、頭も良い人間を産みたいと願う欲求を誰しもが持っている事実を我々に突きつけた。この事実は社会が課す”正しさ”のハードルが高まる中でいっそう不可避の問いとして我々の頭をもたげることになるはずだ。
 こう考えると、人間が生み出し内部で使用していた淘汰の概念がいよいよ人類全体に適応される段階に入ったのではないかとも言える。人間の内部で適者生存の話をしていたら実は人類全体が地球上で淘汰されるフェーズに突入していた。ーーー笑い話にしてはよくできている。

 もう手遅れかもしれないが、私は素朴な進歩主義による”清潔で、快適で、正しい”社会の追求に歯止めをかけるべきだと考えている。止めることが不可能でも進歩のペースを大幅に遅らせるべきだ。正しすぎる社会は生きていて窮屈だ。息苦しい。日々折りに触れて自らが社会のまともな構成員としてやっていけるのかと怯える社会は望ましい社会だろうか。

 そんなこと気にもしない方々が大半だろうが、そのツケは凄惨な事件として社会に顕現する。相模原障害者殺傷事件、京アニ事件、京都ALS安楽死事件、「無敵の人」が起こした事件ーーーこのような事件に直面するたびに”正しい”方々は問題を見なかったことにして先送りにする。”正しい”社会秩序の動揺をなかったことにする。このような無責任な姿勢は私も同様なので批判する資格がないことは重々承知の上だ。だが、不可逆な社会のハードルの高まりとそれがもたらす諸問題に向き合う時間は残されていないのが現実だろう。私は少しでも思うことがあったので今回、このような文章を書いた次第である。


 素朴な進歩主義に基づき、他人にさらなる”清潔さ・快適さ・正しさ”のアップデートに応じるよう訴えること自体は自由だ。コンビニからエロ本を排除しろと叫び公共空間でオタク男子を連想させるセクハラ表現を排除しろとも叫び、他人に体臭のケアを要求し、人権に配慮した言動を求め、LGBTなども含めた多様性を求める。その主張自体が妨げられることはあってはならない。
 だが、忘れてはならない。他人に”清潔さ・快適さ・正しさ”のアップデートを求めるのなら自らもそのアップデートに適応しなければならないことを。素朴な進歩主義で他人に配慮ばかり求め、自らは一切の不快感や負担を背負わないなんて都合の良い態度は許されない。お子ちゃまのままでいてはならない。大人にならなければならない。素朴な進歩主義の先にある世界が本当に清潔で、快適で、正しい世界であるとは限らない。あなたがアップデートされた社会への適応にストレスを感じたとしてもそのストレスは正当なる対価である。


 喜べ、本望じゃないか。あなたが直感を疑うことなく望んでいた”美しい”世界がついに実現しつつある。その”美しい”世界にある日突然、訳もわからずあなたの居場所がなくなったとしても、あなたは世界にとって”汚点”なのだから潔く世界から退場するがよい。あなたが望んだ”正しい”世界が「さらばだ、理想を抱いて溺死しろ」と告げている。理想を抱いたままその理想が未完成の中で溺死してしまうのは筆舌に尽くし難い悔しさであろうが、あなたの役割は終わったのである。これ以上あなたは世界の”正しさ”についていけないと世界から見なされたのだ。世界が「ついてこれるか?」と問うてもあなたはついていけなかった。ただそれだけの話だ。あなたは所詮、”正しさ”の選抜に敗れた先の時代の敗北者なのである。誠に残念である。お悔やみ申し上げたい。

残酷なことこの上ない時代だが、私は生きていくしかない。今日もどうやって自分が生き残りかつ他人に厳しくならないようにしていくか悩む。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?