浅沼優子氏の再返答と公開質問について①(モチダより)

 tweetを見たので、最初に追記します。私はあなたに喧嘩をうっていませんよ。ただ、私が愛する東南アジア島嶼部の華人社会の人々を、「人種」暴力の再来から守りたいだけです。勝ち負けはモチダと浅沼優子氏の論理ではなく、差別の被害者を減らせるかどうかです。


 今朝、浅沼優子氏の新たな投稿を読みました。大変誠実にお応えいただいた解答だと思います。私もすぐに返答します。返答は二つに分けます。



 まず、誤解を解くために、既に書いた内容を繰り返し、私の立場を明言しておきます。

①モチダは、当事者による「BLM」運動を原則的には批判しません。「ALM」という差別的な用語も用いていません。その紹介者である浅沼優子氏のある種の言説(discourse)の(全てではなく)ごく一部を問題としています。その理由は、東南アジア島嶼部の華人社会における「人種」暴力を正当化する可能性のある言説を否定したいためです。

②小沢健二氏のtweetについて、私は一度も言及していません。また私は、浅沼優子氏が小沢健二氏を批判することも自由だと思います。小沢健二氏には小沢健二氏の論点があり、私はそこに同意も反対もしません。もっとはっきり言うと、「お好きになさってください」と思っています(後述しますが、小沢健二氏の言論は東南アジア島嶼部の華人社会における「人種」暴力を肯定する方向性を持っていないからです。)

③私は、研究者としての領分などで怒っているのではありません。浅沼優子氏の言論が、現実の「人種」暴力を正当化する可能性を危惧しています。米中関係が悪化している現在、これは現実の問題となりかけています。



 次に、私が浅沼優子氏に対して持っている肯定的な気持ちを明記しておきます。

①まず、「BLM」運動の意義を日本で紹介しようとした気概を、モチダはとても嬉しく思っています。Meek Millの逮捕など、アメリカ国内の重要な情報が伝わりづらい状況で、勇気ある取り組みだと思っています。

②それから、20年来のアメリカ音楽(特にsoul, funk, hiphopなど)の愛好者として、ミュージック・シーンに直接的にかかわっていること、とても尊敬いたします。

③また、政治的な攻撃ではなく、言論で戦い、しっかりと反論しようとする気概を持つこと、とても嬉しく思います。それだけが、現実の差別に対抗する可能性であると思います。前にも書きましたが、私はある種の差別主義者たちや傍観者たちより、浅沼優子氏のスタンスと気概を迷うことなく支持しますし、可能な限り応援したいと思います。



 では、続いて反論を書いていきましょう。まず要点を整理します。

①「人種という概念、その「再生産」について」ですが、私はこの議論は当然知っています(学者ですし)。しかし、この反論は結局のところ、アメリカ国内問題のレベルの理解に過ぎません。それを世界各地に広がる絶対的な正義としての差別是正運動として紹介した場合、東南アジア島嶼部の華人社会における「人種」暴力を正当化する可能性があります。対案として、私は、浅沼優子氏が今後「人種」・「黒人」・「白人」などの言葉にカッコをつけて注記することを勧めます。

②「②「無知」の罪」について、まず、「知性」といういい方はよくなかったです。今後は「知識」と言い換えます。しかし、「「ALM」という言葉に無知であることが罪である」ことを肯定することは、「人種」に関わる問題について、一定の知識がないものを批判し、その言論を否定するものです。そして、私は「無知は罪である」ことを浅沼優子氏が否定するのであれば、あのような無茶な宿題を出す必要はありません。できれば、「無知は罪ではないが、知るべきであるということは肯定される」と言明してください。

③非差別的な状況に置かれている人々が、差別者よりも知識を持たない事例は往々にして存在します。これは差別的な言説ではありません。むしろ、アファーマティブ・アクションという政治制度の意義はそこに存在します。

④私は、投稿の最期に、対案として「もしそれが難しいようでしたら、浅沼氏の視点から見て「無知」な人たちに、もう少しだけ、寛容な態度で接するべきではないかな、と思います。」と明記しています。私が浅沼優子氏に実際に求めているのは、200冊の読書ではなく、「無知は罪である」ということを否定する寛容さと、現実の「人種」暴力を正当化させない気配りです。



 反論①について、まず具体的な描写から始めましょう。具体的には、貞好康志先生の『華人のインドネシア現代史――はるかな国民統合への道』(木犀社、2016年)や、Hirschman, Charles, “The Making of Race in Colonial Malaya: Political Economy and Racial Ideology,” Sociological Forum 1 (2), 1986, pp. 330-361、またAlatas, Syed Hussein, The Myth of Lazy Native: A Study of the Image of the. Malays, Filipinos and Javanese from the 16th to the 20th Century and Its Function in the Ideology of Colonial Capitalism, London: Frank Cass & Co., 1977などを参照してください。

 植民地時代を通して、現在のインドネシア(オランダ領東インド)を含む東南アジア島嶼部では、植民地における分割統治を容易にするために、「人種」の違いと対立の必然性に関する神話が作られていきます。これは、特定の「人種」は特定の性質を生まれながらに持つものであり、それ故に異なる集団として暮らしていくことが合理的であるという発想でした。これにより、それまで基本的には複数のエスニック・グループや方言グループとして暮らしてきたポリネシア・マレー系の集団や、福建人・広東人・客家人などが、「マレー人」と「華人」に大別されていきます。

 具体的には、華人はずる賢く、お金儲けに向くが、信頼することはできない。またマレー人やインドネシア人(現地民、indigenous peoplesです)は、誠実だが怠け者であり、ビジネスに向かず、農業などをさせておく方がいいという発想でした。これはビジネス・鉱工業などを華人に、農業などをマレー人・インドネシア人に主に担当させて分業体制をつくり、互いに対立・監視させるという機能を果たしていました。

 この「人種」相違の神話は、戦後、植民地解放後も存続します。さらに、マレーシアやインドネシアなどの新しい国民国家建設の流れの中で、「植民地時代には、誠実で貧しいマレー人・インドネシア人から、ずる賢い華人が金を盗んできたので、新しい国家では奴らから金を取り返さなければならない」という議論が頻発するようになります(もう一つ、中国国内の共産主義化という論点もあるのですが、これは省略します)。

 このような言論の過激化が生んだ事件が、1965年の9・30事件です。この事件では、共産主義者の軍事クーデタをきっかけとした、スカルノ政権からスハルト政権への移行がなされるとともに、共産主義者とそのシンパ(と見なされたもの)への弾圧(大量殺戮・投獄など)が発生します。さらにターゲットは「共産主義者で富裕である」(と見なされた)華人に向かい、同じく略奪・焼き討ち・虐殺などが発生します。インドネシア全土で50万人とも100万人ともいわれる大量虐殺となりました。またマレーシアやシンガポールでも、より小規模ながら「人種」間衝突・暴力が存在し、多くの死者を生み出しました。

 さらに1990年代のインドネシアでは、大不況の到来とともに、植民地時代から続いた「人種」対立という神話が再度復活します。スハルトの汚職問題と共に、そこに関与していた一部の華人ビジネスマンを攻撃し、「華人が俺たちインドネシア人の資産を盗んでいる(なぜなら「華人はずる賢く、お金儲けに向くが、信頼することはできない」からだ)」という言論が再び生み出されるようになっていくのです。

 これらはまず小規模な暴力、略奪から始まり、インドネシア国内政治による影響(恐らく反スハルト派が陰から軍隊を利用して「人種」対立・暴力の正当性を煽り、暴力を誘発させ、国内における治安問題の発生を狙っていたものと思われます)もあり、暴動となっていきます。その中でも最大の暴動となったのが、1998年のジャカルタ暴動です。この暴動の死者は1200名程度であり、さらにより多くの負傷者、性暴力の被害者が存在しました。

 大変ショッキングな描写ですが、私の深刻な不安を伝えるため、あえて議論します。たとえば、5月13日に起こったある事件では、ある一家がターゲットとなりました。この一家の息子(兄)は妹をレイプすることを強要され、しないならば焼き殺すと脅迫されました。また使用人に対しても、主人である女性(母親)をレイプすることが強要されました。さらに母親と娘は多くの人間にレイプされた後、家に火がつけられ、息子と娘は火の中に投げ込まれ殺害されました。母親は後を追って、焼身自殺しました。これは、たった一つの事例に過ぎません。

 これらの「人種」問題は、2000年代以降に徐々に解決に向かっています。しかし昨今、インドネシア・マレーシアでも、米中関係の対立に伴い、より緊張感は増してきています。また、現地でも、「人種」対立・暴力の正当性を主張する言説は(かなしいことですが)いまだになくなっていません。来月、「人種」対立と中国共産党の脅威が喧伝され、また華人がターゲットになる時代がくる可能性さえありえるのです。


 では、浅沼優子氏の問題に戻りましょう。浅沼優子氏のいう「カラー・ブラインドネス」という論点は、アメリカ国内問題としては十分な意義があると思います。ですが、それを世界に普及した場合、「「人種」の違いは現実に存在しており、その不公平を是正することは絶対的な正義なのだ」という誤解が生まれる可能性は十分にあります。それはそのまま、「人種」間の暴力の肯定につながりかねません。

 私が小沢健二氏のtweetを議論しない理由もそれです。積極的な暴力の誘発性がないので、個人の意見レベルでしかないと思うからです。

 暴動に加わった一部のインドネシア人たちは、本当に貧しい環境にあり、「人種」対立のニュースを聞き、「植民地時代からの差別と搾取を、暴力で是正してやろう」と考えていたのです。前述した焼き殺された犠牲者たちに、浅沼優子氏は「カラー・ブラインドネス」の問題性を説き、「人種」という社会的制度は存在しているし、差別是正の必要性は「人種」概念の不当性の表明よりも優先されるのだと言えますか?

 はっきりと言いますが、浅沼優子氏の反論はアメリカ国内問題のみを注視するレベルの知識に基づく議論でしかありません。そこには、世界各地における「人種」対立という問題への視野と知識が欠けています。私個人の意見としては、「人種」と差別是正を論じるのであれば、当事者以外は、「人種」・「黒人」・「白人」などの言葉にカッコをつけて注記することを進めます。もしこれさえも否定するのであれば、浅沼優子氏ご自身が「アメリカ国内問題を解決するためには、他地域の「人種」対立を煽り、様々な暴力の犠牲者も生みだすことをも容認する」という立場を言明してください。

 続きます。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?