前記事について、少しだけ追記します。


  追記があります。併せてご確認ください。



 持田です。はてなブックマーカーなどで、多くのご意見をいただき、嬉しいです。少しだけ、釈明をさせていただきたいと思います。


 まず、何故私がこの記事を書いたのか、について。

 私は授業で東南アジア島嶼部の華人社会史を講義しており、その中で華人に対する差別構造というものがいかに制度的に創出されたのか、それが現代社会にどのような悲劇を生み出しているのか、我々はそれとどう向き合うべきなのか、といった点を重視しています。

 ですが、ここ2年ほどの授業でのコメントで、受講者の方から「華人差別といっても、華人とマレー人などは別の「人種」なんだから共存できないのは当然だ」、あるいは「「人種」問題は現代ではアメリカの問題であり、アメリカに暮らしていない我々には実感がつかめないのは当然だ」といったコメントを非常に多く見るようになりました。

 前の記事で書いたように、「人種」問題は世界的な問題であり、アメリカの「人種」問題はその一例です。たとえばインドネシアでは、1998年のジャカルタ暴動で多くの凄惨な犠牲者が出ていますし、映画「アクトオブキリング」公開時の騒動も記憶に新しいところです。世界各地に「人種」に起因する社会問題が存在し続けているなかで、アメリカの「人種」問題のみを注視した結果、「人種」概念を当然のものとして受け入れ、アメリカの「黒人」以外の人々は「当事者」ではないような言説が増えていくことは、まさに各地の「人種」差別を助長する結果になるのではないかと思ったのです。

 現在、「人種」概念をナチュラルに受け入れていく学生が増えていくことに、私は深い絶望感と不安感を感じています。そのため、多少の批判を覚悟のうえで、前記事をあげました。本当に人を不快にさせたくはないのですが、「人種」問題に関心がある方であれば、現実としてどうしても認められない一線があることを理解していただけるかなと思います。なので、繰り返し謝罪はしておいたわけです。本当にすみません。



 続いて、個別のコメントについて。 

 grdgsさん。「誰も不快な気持ちにさせたくない」と言いつつ「もちろん浅沼氏がそうだといっているわけではないですよ、単なる偶然ですよね?」などと嫌味や喧嘩売るのは性格が悪いのか頭が悪いのか、その両方か。

 これ、両方です。私の人格も能力もだいぶ問題があります。すみません。



oko-hiromさん。これは酷い。「人種差別をするな」との主張に「差別用語“人種”を使うのは差別だ」とは言い掛かり。知識をひけらかして浅沼氏を貶めているだけ。何より,人種差別の無くしたいとの思いが欠片も見当たらない。

 まず、不快なお気持ちになられたとしたら、申し訳ございません。

 次に、言いがかりとのことですが、差別を再生産する語彙を使うことを、差別を容認しない立場の人間がするべきなのでしょうか。たとえばN-wordを使うことに反対するのは、「言い掛かり」なのでしょうか。差別構造を再生産し、「人種」暴力の引き金となることを容認するのであれば、それは既に差別主義者と同じ立場です。

 また「知識をひけらかして」とのことですが、浅沼氏の「無知は罪である」という発言をどのようにお考えでしょうか。何より、私は、反知性主義的な立場にはあまり与したくありません。無知は罪ではないが、教養は人の思考をより精緻かつ開放的にするものだと思うのですが。

 最後に、「何より,人種差別の無くしたいとの思いが欠片も見当たらない。」とのことですが、私は文中何度も「人種」差別構造を再生産しない、ということを強調しています。「人種差別を無くしたいとの思い」があれば、「BLM」を全面肯定しろ、ということでしたら、私にはそれはできません。「人種」概念のさらなる普及による、東南アジア島嶼部の華人社会における凄惨な「人種」暴力を二度と見たくないからです。



lilllllllさん「BLMと呼応した動きはパレスチナやレバノンなどでも起きている。アラブ世界とBLM運動 https://bit.ly/31h1k7h

 私は、浅沼氏の「今ではあらゆる人種差別を撤廃するための運動として世界中に広がっている」という言説に対し、「あらゆる」ではないよ、という凡例を示したのですが。

 一例によって全体が否定できるのであれば、「私の周りには差別主義者はいない」というよくある差別言説をそのまま肯定してしまうことになりかねません。限定的であるという批判に対して再批判するのであれば、「あらゆる人種差別を撤廃するための運動として世界中に広がっている」ことを論証すべきです。


bearcubさん。この自称「やさしい」学者の方も数百人の「米国在住の『黒人』」と個人的に交流を持ってみたらいいかもね。他人がまるで自分のゼミの学生のように格下だと思ってふるまう学者ってたまにいるよね。

 まず、不快であったら申し訳ございません。格下として扱ったつもりはありませんが、「無知は罪である」のであれば、研究者とも同じ土俵で戦う必要があると思います。

 ですが、私は華人社会史研究者であり、華人の友人との交流を持っています(数百人もいないですが)。欧米系の学者との交流も多少はあります。米国在住の『黒人』と交流を持つべきというのは、それによって意見が変わるということでしょうか。私は中国本土(厦門)への留学中も、中国の民族政策については聞かれるたびに文句を言っていた(毎回とんでもない空気になりましたが…)ので、特に変わらないと思いますよ。今はとてもそんなことはできない空気になってしまいましたが、当時はまだ大丈夫でした(怒鳴られたりはしたが、少なくとも殴られたりはなかった)。

 何より、同じ意見を持つ人々によって自分と意見の違う相手を包囲して、意見を無理やり変えさせようとするのは、あまり人道主義的ではない感覚ではないでしょうか。


afurikamaimaiさん。「なにか」を出汁に争いたがっている二人、という構図はすごく伝わってくる。もはや巻き込まれた元の命題が哀れに思えてくる奴。ぶっちゃけ今回の命題じゃなくても、争える「ネタ」であれば満足でしょ貴方たち。

 この記事を読んでもらえれば分かるように、東南アジア島嶼部の華人社会における「人種」差別暴力は、2010年代まで続いている現実の問題です。私は「人種」概念を肯定しないことで、それと戦っているつもりです。私が争っているのは現実の社会問題であること、ご理解いただけますと幸いです。


popopopopopperさん。全然優しくない…コワイ

 私がやさしくなろうと決めたのは、自分が大腸がんで死にかけた経験を得た5年前あたりからです。人に寛容であることの価値を(いい年になってやっと)学んだからなんです。情けない話ですが。まだだいぶ付け焼き刃なんです。ご容赦ください。


 以上となります。もし失礼かつ不快なコメントなどございましたら、本当に申し訳ございません。また多くのご意見、ありがとうございます。

 批判された方も含め、「人種」問題の世界史的な展開に関する知見が深まったのであれば、これに勝る喜びはありません。




 



 

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