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自己紹介

東京都出身/在住の27歳♂です。

経歴
✎2017年03月    都内私大 文系学部 卒業
✎2017年04月~ ハウスメーカー(営業職) 
✎2019年01月~ SES会社(エンジニア) 
✎2020年12月~ 外資系総合コンサル(エンジニア)

趣味
✎サッカー/フットサル 
 小学2年生の時に始めました。大学ではフットサルサークルに所属。
 今も友人とプチ大会に出たりしています。
✎ランニング
 週2~3程度、6~7km 走るようにしています。
✎ゴルフ
 伸びしろがあります。(下手です)
✎ドラマ鑑賞
 オススメは「賢い医師生活」。ストーリーにそこまで起伏は無いのですが、エリート医師たちの日常生活(仕事、友情、恋愛 etc…)に釘付け。
✎音楽
 Backstreet Boys, Carpenters, Rickie-G, サザンオールスターズ, Mr.children


どこまで遡って自分語りしようか悩んでいますが、物心付き始めた高校時代から書いていこうと思います。


高校時代

都内のごく一般的な共学高校に進学しました。部活はフットサルの同好会の様なものに入りました。中学時代のサッカー部にて最高成績として都ベスト4まで勝ち進んだ実績があり、結構自分の中ではやり切った感覚がありました。「高校では羽を広げて楽しくやりたいなー」なんて思っていました。

この同好会は部員20名程度で、練習は週4くらいはあったかと記憶しています。土日はフリーだったと思うのですが、今思うと何して過ごしていたのか、全く思い出せません。

緩さを求めて加入した訳ですが、中学の頃は毎日真剣に部活に取り組んでいた反動で、どこか物足りなさを感じるようになります。もっとガチでやりたい、と思うようになります。わがままですね。

高2で同行会長を務めることとなり、多少なりともガチで取り組める組織にしよう、その方が楽しいじゃん、と独裁マニフェストを掲げていました。

しかし、これが上手くいきません。

高校のフットサルチームは多くなく、大会は夏に1度行われるだけでした。
それ以外は、各自で試合相手を見つけて練習試合するしかありませんでした。

試合や大会が無いとなると、目標が無く、努力する理由が生まれないのです。少しハード目な練習メニューを組んだ際に部員がダラダラとこなしていても、「頑張ろうや!」と言えませんでした。頑張る理由が私の中でも見つからなかったのです。「真剣にやる中に本当の楽しさがある」という個人の想いだけで空回りしていました。

組織では共通の目的/目標を持つことの重要さを学びました。

中学時代は、都大会で終盤ギリギリのところで勝ち越し点が決まったりしたときや、自分がいいプレーしたときには心が躍りました。その帰り道には達成感や高揚感に包まれながら、部員たちとコンビニでおにぎりやアイスなどを買って食べ歩いたりするのが、当時は何とも思っていませんでしたが、幸せな時間だったんだな、と気づきました。


張り合いの無い生活が続いた高校2年生の冬頃、他の高校に進学した旧友と遊ぶ機会がありました。彼は都内の進学校に通っており、既に大学受験を見据えて英単語帳を丸暗記している状態でした。

これに衝撃を受けました。私の高校では、そこまで受験を見据えて真剣に取り組んでいる人は、知る限りいませんでした。

物足りなさを感じて過ごしていた日々でしたので、いまある全リソースを捧げて努力すべき対象はココなんじゃないか、と内から湧き出るものがありました。

その後すぐ親に相談し、予備校に入れてもらいました。このとき大学受験まで1年弱ありましたが、絶対にやってやる、と鼻息荒く意気込んでいました。

私は勉強のセンスがある方ではなく、当時学力テストでも総合偏差値50ちょっとだったと記憶しています。英語だけなぜか突出して得意で偏差値63くらいあったのを覚えています。

同好会のリーダーとして練習に欠席するわけにはいかない、との思いから少しの期間は予備校と部活との両立をしていましたが、このまま中途半端にリソースを分割していては後悔する気がして、部員には本当に申し訳なかったのですが、途中で受験勉強に専念させてもらうようにお願いしました。

予備校に集中して通えるようになってからは、帰りのホームルームが終わり次第誰とも戯れることなく、予備校に向かう生活が続きました。予備校に行くと、同志たちが必死に頑張っている姿に感化され、集中が途切れずあっという間に時間が過ぎていきました。

この生活になってからは毎日充実感がありました。部活に汗を流している友人を見ると羨ましさを感じてしまいましたが、この高校の中で誰よりも偏差値の高い大学に進学して後の人生で回収してやる、という想いで勉強生活に邁進しておりました。

ちなみに今社会人になって思うのが、「どの大学を出たか」なんて新卒での就活での履歴書に多少の箔が付くくらいで、キャリアを重ねていくにつれどんどん価値が薄まっていくなと感じています。社会人の評価軸は、社会に対して「どれだけバリューを出せるか」だと思っています。

現に、今私は3社目ですが、大学名を気にされた経験は無く、たまに浅い知り合いとの飲み会とかで身辺調査時に話題になるくらいです。

ですが、当時高校生の頃の自分にとって「どの大学に入るか」は、重要な指標でした。

話が逸れました。


で、結果的に「誰よりも偏差値の高い大学」は叶いませんでしたが、文系生徒の中でTOP5には入るくらいの大学には進学できたと思っています。勉強センスのない、総合偏差値50からスタートしたことを考えると、自分の中では「よく頑張った」と思っています。


大学時代

晴れて入学を迎え、高校受験時には「大学では沢山遊ぼう」と考えていたので、大学では勉強はそこそこに、遊びやアルバイトに没頭しようと思っていました。

想定通り、特に勉強はせず(GPA 1.8とかだった気がしますw)、友人たちと沢山遊んだ大学生活でした。先を見据えての行動は全くしておらず、「今が楽しければそれでいい」と思っていました。

大学で将来に向けて努力している人を見掛けると、高校時代に先回りして努力してきた自分と照らし合わせ、焦りが出てきました。

何らか行動しなくちゃという想いも芽生えたりしたのですが、それ以上に友人たちとの時間が楽しく、結局何もしないまま就活を迎えてしまいました。

就職活動では、給料が良く、それなりに知名度のある企業ばかりを受けていました。大学時代に何も武器を身に着けてこなかった自分が簡単に内定を頂けるはずもなく、当然のごとく「書類選考落ち」や「お祈り」ばかり。

しかし、最終的に内定を頂いた企業は、当時の採用倍率80倍とも言われていた某ハウスメーカーでした。給料面とそこで働く方々のキラキラした覇気に惹かれ、入社を決めます。(特に住宅営業に興味がある訳ではなく…)

大学4年の秋頃に開催された内定者懇親会では、周りのみんなの実績に圧倒されました。体育会の部活に入っていた人が大半を占めており、インカレ優勝や、世界大会出場、当時のネット記事になっている人などがちらほらいるような世界でした。「自分はこんなタレント軍団の中でやっていけるのか」と不安になりました。


住宅営業職としてボロボロだった1年半

前述のとおり、期待より不安感が強い状態で入社した私は、案の定、全く通用しませんでした。

入社してからの3か月間は研修でした。日本全国各地を転々と巡り、毎日朝から晩まで同期と生活を共にすることで絆は深まっていき、綺麗な施設で研修。移動は新幹線や飛行機。全く仕事もしていないのに、「あれ、意外と社会人って楽しいかも」とアホらしく有頂天になっていました。

研修が終わり、いよいよ各支店への配属。配属後まもなくは、先輩へ自ら声を掛けて営業ロールプレイに協力してもらったり、初契約に向け意気揚々と日々キャッチアップを進めていました。

しかし、1年目の秋頃を過ぎても初受注を頂くことはできず、この時期になると同期の半分以上は受注をしていて、人によっては2件目の受注をしている頃でした。それが支店に順位として貼り出され、売れている営業、売れていない営業が如実に数字として露になります。

当時1件も受注できていなかった私は、受注が取れないだけでなく、その他にもあり得ないミスの連続や、先輩方との関係性を上手く保つことが出来ないことから、次第に支店内で孤立していきました。

人間関係が上手くいかないことで、仕事への熱意も薄まっていきました。

どんどんと仕事に身が入らなくなっていき、気持ちが滅入り、また仕事でミスをして先輩や上司を怒らせてしまう、といった負のスパイラルを引き起こしていました。

課長からは半ば見放され、「お前みたいな新人は初めてだ」と言われる始末。相当ヤバかったのだと思います。自分ではどう改善していけばいいか分からず、相談できる先輩も居なく、軽い鬱状態へと突入します。

1年目の冬のとある休日、朝起きても何もする気が起きず、一日中部屋のカーテンを閉めたまま天井を見上げて過ごした日が出てきたり、雷が激しく鳴っていた日には歩道橋の上で「自分に雷落ちたら全てを終えることが出来る」と思う場面がありました。

いよいよマズいと思った為、一度課長に「辞めたい」と伝えたことがありましたが、このタイミングでは支店長から個別で飲みに誘って頂き、自分に対しての期待が感じられたことが嬉しく、もう少し頑張ってみよう、と前向きな気持ちになれました。

その後2年目となり、新たな課長へと変わりました。2年目は1か月で2棟受注、2か月連続受注など、少しは成果を出すことが出来ました。課長に一緒に商談に出て頂いたりなど、自分一人で受注できたとは思ってはいないものの、それでも少しずつチームや支店に貢献が出来るようになり嬉しく感じられました。

1年半で、どん底~やや好景気 を行き来したわけですが、調子いい時は周りから「頑張っているね」と声を掛けられることも多く、居心地の良さは感じていました。


しかし、私は辞める決断をします。

見切りが早かったかもしれませんが、自身の営業としてのポテンシャルに限界を感じました。受注できたのは運が良かっただけ、元々人との会話が得意ではなく、支店の皆さんとの良好な関係性が築けない自分が、売れっ子営業になれるはずがない、と思う様に。

一時的な成果は出ても、それまでの精神状態は改善されておらず、完全に自信喪失となっておりました。

退職時点で、次の仕事は全く決まっておりませんでした。ニート生活の始まりです。怖さはありましたが、とてつもない解放感に包まれ、しばらくの間はグータラな生活に幸せを感じていました。


エンジニアを選んだ理由

幸せなニート期間も、3か月も続くと虚無感に襲われてきました。大学時代の友人の活躍している姿をSNSで見たり、両親と話したりするタイミングで、自分が情けなく感じるようになってきました。せっかく大学入学までは自分なりに努力してきたのに、それまで積み上げてきたものを全て投げ捨てた感覚に陥り、「あの時の犠牲や努力やなんだったんだ」という気持ちになりました。

転職活動にあたり、自分はどの様な職業に就いたら幸せになれるのか真剣に考えました。書籍も沢山読みました。その中で印象に残っている本が「転職の思考法」という本です。

特に印象に残っている内容が、仕事選びにおいては一部の天才型を除き「何を成し遂げたいか」で選ぶのではなく、「どんな状態でありたいか」で選ぶと失敗しづらい、との内容です。

これを読んだとき、自分にとってどんな状態が快適でストレスが無く、且つ、退屈せずに長く続けられそうだろうか、と考えました。

以下が私にとっての仕事においての在りたい「状態」でした。
・自分で優先順位をつけ、物事を計画的に進められる
・一つの物事に対してじっくり思考を深められる
・前に進んでいる、進捗している実感を得られる
・いつ会社の看板が無くなったとしても稼いでいけるという安心感を持てる

今もですが、当時からエンジニアを推しているインフルエンサー的な人がおり、たまたまYoutubeで目に入ったことをきっかけに、エンジニアについても調べてみました。

最初は漠然と地味なイメージがあって全く検討していなかったものの、次第に魅力的に感じるようになりました。労働の自由度が高いこと、将来的に人材不足が加速し給料相場が上がっていく可能性があること、自身のスキルの積み重ねで勝負ができることを知り、且つ、自身が在りたい状態とマッチしており、「挑戦してみたいかも」と思う様になりました。

そして、転職エージェントを通じて、SESに未経験エンジニアとして転職します。


未経験エンジニアとしての2年間

世間的なSESの評判は良くなく、給料は低い、下請け業務が多くスキルが身に付きづらい、などど当時の転職活動中からも聞いてはいました。しかし、IT業界未経験の身分で取捨選択する余地は無く、早く実務経験を積みたいという気持ちで入社を決めました。

こちらも最初は3か月の研修がありました。この会社への決め手は「研修の充実さ」でした。3か月の研修は長い方かと思います。研修講師は厳しく、ITエンジニアとしてのいろはを学ばせてもらいました。同期は12人いましたが、全員未経験で同じ地点からのスタートでした。

研修では泣き出す人もいるくらいシゴかれましたが、充実感があり次第に楽しく感じるようになっていました。

研修後は各プロジェクトに配属され、私はとある企業のSOCにて、エンドポイントセキュリティシステムの運用業務に携わることとなりました。

当然最初は何もわからない状態で四苦八苦していましたが、チームの方々にはとても親切にサポートして頂き、前職とは打って変わって人間関係を良好に仕事をこなすことが出来ていました。

しかし、業務自体はストレスなく順調なものの、お財布事情が厳しく、当時の給料では貯金はおろか、満足に生活が出来ない様な状態でした。

「しばらくは修業期間だから給料低くても我慢」という気持ちでいたのですが、1年目過ぎた段階で「そろそろキャリアアップできないかなー」と考え始めるようになりました。給料上げたい一心で転職活動を始めます。

先に申し上げておくと、この転職活動は上手くいきませんでした。エージェント3社から色々と求人を貰ってエントリーしていましたが、内定が出そうな企業はこの時の自分の給料とあまり変わらず(上がっても年収30万円upとか)、業務内容も惹かれるものがありませんでした。

次の企業は慎重に選ぼうと思っていました。あまり幾つもの転職を繰り返してしまうと、採用担当からすると「この人仕事が続かない人なのか」と思われてしまうので。なので、次の会社では長く働ける環境が良いと考え、妥協はしたくありませんでした。

しかし、妥協をしないとなると、簡単には決まりません。働きながらの転職活動はとてもエネルギーのいるもので、業務で突如残業が発生すると、採用面接に参加できなくなったりして、調整事も多く出てきます。数か月の間、転職活動を進めましたが、業務が忙しい時期に差し掛かかったこともあり、転職活動は一旦ストップすることとしました。

そんな感じで、依然として生活に余裕はない状態で、しばらくは過ごすこととなりました。

大手外資系企業に転職

SESに丸2年勤めたタイミングで、外資系のコンサルティングファームに転職が決まります。

当時の転職活動についての詳細は、別記事に書いています。

https://note.com/histonicandgin/n/n06f5f16a0b0c

大学時代から知っていた会社であり、入社が決まった際は嬉しかったのを覚えています。奇しくも内定を頂いた日は、祖父が亡くなった日でした。祖父の葬儀の打ち合わせを行っている最中に内定通知が届き、親戚からもおめでとうと言ってもらったのを覚えています。

業務内容について細かくは言えないのですが、大枠としてはネットワークエンジニアとなります(役職はアナリスト)。ネットワークに関しては全くの未経験ですが、SESで担当していた業務と多少の親和性がありました。

現在、勤続2年目後半ですが、日々バラエティに富んだ課題にブチ当たりながらも、なんとか頑張っています。


終わりに

目を通して頂きありがとうございました。ここまで自分の過去を文章化したことは初めてでしたが、こうして書いていると、今まで記憶の片隅に眠っていたことが突如鮮明にフラッシュバックされたり、思い出に浸ることが出来て良い時間となりました。

そして、記事には書いていないのですが、頭の中では幾つか印象的なイベントが巡っていて、過去色々な出来事があったなーと思うと同時に、いまは良くも悪くも安定しちゃっているなーとも思ったり。どんどん人生にアップデートを掛けて、多くの心揺さぶる経験を積んでいきたい、そう感じました。


もし何か共感すること等あれば、コメント頂けたら嬉しいです。
それでは

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