とある小春日和

通学路の梅がいよいよ満開になりました。空が明るいうちに帰れる日は、ふと顔を上げて段々と盛りに近づいていくソレをぼんやりと横目に見ていたのですが、その日ばかりはじっと魅入ってしまいました(まあそれもひとさまの家の前なので5秒もあるかという程なのですが)。

私の街は家ばかりで大した面白みもないところです。ところせましと家、家、家。2階建ての家が建つことなんてもうめっきりなくなってしまいました、新しいものはみーんな3階建て。それはもうギッチリ。駅前の商店街の方はまだ少し古い建物が残ってるかな。でもみんな隣街の大きなショッピングモールに行くから、閑散としてるはず。私もこの街に10年いますがそこで買い物をしたことは無いと思います。おまけに帰り道はその方とは正反対の方にあるので行くこともなく。

その帰り道が、かつて存在した、もう一つの商店街の成れの果てだと思い至ったのはつい最近のことです。もうずっと、毎日歩いていた道なのに、この間になって、はたと気がついたのです。

一方通行のその道は、途中で少し折れながら二百メートルほど続いています。例に違わず、ここもやはりひたすら家。道の終わり、大きな紫陽花の木が植えられていたあの家もいつの間にか壊され、もとは一軒家だった敷地に今は白い3階建てが2棟。庭なんてもちろんありません。人の背を悠に越して咲く紫陽花、珍しくて好きだったのに。

至って普通の住宅街を通る道、その間20メートルほどだけ、“それっぽい”のです。壁からテントが生えたような布地の軒先。営んでいないのに掛かっている「青果店」の古びた看板。かつてそこに看板が掛けられていただろうと分かる一部だけ変色した壁。閉まりっぱなしの飲み屋。閑静な住宅街に不自然にぽつんとある蕎麦屋。はっとして見上げれば、この通りだけにしかない少し洒落た街頭と、その下の小さな看板に「○☓商栄会」の文字。

その一つ一つは確かに毎日見ていたもので。それらが突然カチリとはまって。

在りし日の姿を垣間見たような気がしました。廃れつつあると学校では教えられていたけれど、その先のことなんて考えたこともありませんでした。時の流れを、感じました。

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