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こころ

ネットで迷子になりがちなので。

SNSで自分のアカウントを作ったとしても、それは自分の全てを反映するわけではないのですから、またそこに新たな、自分ではない存在が生まれるんだと思います。自分が動かしていていても、どれだけ自分のことを書き出しても、それは自分ではない。何か「アカウント名」の皮を被っていて、その皮を被ったままで認識されていく。認識が広がっていくと同時に皮はどんどん分厚くなって、自分とはかけ離れていく。それで今度は、自分のために作り出した存在に押し潰されそうになる。もちろんそうじゃない人もいる、だからやっぱり私は、そういうものに向いていないのかもしれません。

人物のアイコンなんか一番分かりやすい「皮」で、すぐに受け入れられやすいものだろうけど、きっと私は使うべきじゃない。例えば私が今使っているTwitterの「アカウント名」さんを実際に作り出せたなら、我ながらよっぽど立派な人間ができると思います。マイナスなことをあまり言わない人間。面倒ごとや自虐的ネタは口に出すけど、ホントに暗いことは言わない人間。勿論実際の私はそんなものではありません。ただTwitterでは、そんなことを言ったところでそれを目にした人の気分を削ぐだけだ、と思うから。負の感情は伝染するのです。例え、「ああ大変そうだな」の一言で終わったとしても、良い気持ちになることはないでしょう?配慮とか優しさとかいう問題ではありません、誰が好き好んで人の気分を害すでしょうか。

発信する頻度にもよるかもしれない。すればするほど「アカウント名」さんは自分に近づき直すかも。でもそれほどの思いはなくて。ふと思ったときに呟いてみる、それが結局1番扱いやすい。だから知らぬ間に作った存在が独り歩きし始める。

声や絵はともかく、それ以外で「自分」が発信したことによって、「アカウント」として温かな言葉を受け取る時、どうしようもない気持ちに駆られることがあります。

「きっとそれは、『私』じゃない」

人は自分自身の他に、他者の認識を自分と認めることによって自己を確立すると聞いたことがあります。私はそれを認められなかった。なら他者からの認識が生まれるようなことをしなければよかったのに。でも誰かと繋がりたかった。結局は自分を御しきれなかったと。紛れもなく自分で自分の首を絞めたわけですから、こんな滑稽な話はありません。もし次があるなら、もっとうまくやりたいものです。

そういえばとある自分のnoteを見返して、やけに固い文章だ、と思ったことがありました。考えてみると、その頃、ちょうど夏目漱石を読み終わったくらいだったのです。授業で扱った「こころ」の最後の文がやけに印象に残りました。さんざん難しいことを記しておいて。

「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、全てを腹の中にしまっておいてください。」



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