CD:西崎崇子のベートーヴェン

作品:ヴァイオリン協奏曲、ロマンス第1番、第2番
独奏:西崎崇子
采配:ケネス・ジーン
楽団:スロバキア・フィルハーモニー管弦楽団

ヴァイオリン協奏曲がメインで、ロマンスは付録みたいな扱いだけど、よりベートーヴェンらしいのはロマンスの方ではないかとよく考える。

ベートーヴェンに対するイメージには、とても勇んだものが多い。しかし、この人の音楽、実際には、モーツァルトやメンデルスゾーンよりも、余程、甘美だろう。

思えば、20世紀は、少なくとも後半は、大作が小品よりも偉くて、作家の本質を体現するもの、という時代だった。

それを、よもや21世紀まで引きずる人もいないだろうが、ベートーヴェンのヴァイオリン音楽で尊いのは、2つのロマンスと作品12と30の6つのソナタで、クロイツェルやコンチェルトは大袈裟過ぎる、という意見が主流になったとも言い難い。


西崎崇子のヴァイオリンは、余り好みではないのに、スロバキアでの録音が多いので、ついつい気になってしまって手にしてしまう。

それなりに聴いてみたのだけれども、この人の悪い癖は、一貫していて、真面目に丁寧に心を込めて立派に演奏してしまう、という事に尽きそうだ。

だから、ヴァイオリン協奏曲など、スロバキア・フィルがどんなに明け透けに開放的な音で導いても、独奏が現れた途端に音楽が気高くなっちゃう。

それが何とも気持ちが好くて、この人の代表的録音はベートーヴェンのコンチェルト、という事に私の中では落ち着いている。

毒をもって毒を制す、のお手本。

万事がそういう加減であるから、ロマンスの方は、流石に、音楽が大きくなり過ぎちゃって、困った事になりそうだ。

全編に渡って、テンポを遅めにとって、すっかり音楽に没頭している。

その姿勢が余りにも音楽と同化していて、逆に長さは少しも感じなかった。

ヴァイオリン協奏曲の第一楽章は、少しでも飽きずに聴かせようなんて邪な心が働いたならば、忽ちに破綻して、冗長この上ない音楽となってしまうものだから、こうやって、目一杯に大きく取って泰然とあるのが好い。

第二楽章も、一挺のヴァイオリンの方が音楽を支えていて、オーケストラがそちらに絡まり付いたり離れたり、ヴァイオリンは伴奏で、オーケストラの方の出入りが聴き物の音楽、そんな趣きが最高だった。

やっと、最終楽章にして、初めて、所謂、ヴァイオリン協奏曲風な音楽となって来る。

それでも、色彩や躍動はモノクロームのままに、濃淡だって激しくはせず、揚々たる幕引きで、コンチェルトという音楽にある華やかさを廃したものだ。

その流れで、そのまま二つのロマンスを聴くと、今度は、音楽が切々と流れて来て、ちっとも大き過ぎるなんて事がないから不思議だ。

ロマンスだけ取り出して聴いた時には、正直、辟易した演奏だったの、通して聴くと、丁度よいエピローグとなってしまう。

成程、3曲通して一幅なのだ。

そういう意図は、作者にも奏者にも、録音の企画者にだってなかったろうけれども、好いアルバムだなと思った。

1988年の録音。

これぞ20世紀のベートーヴェンのあるべき姿なのかも知れない。

記念碑的なレコードだ。

ベートーヴェンの音楽をこんなに立派に演じて見せる時代が、確かにあったという事の。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?