SACD:ルツェルンの英雄

“ルツェルンの英雄と言えば、当然、1953年、ルツェルン音楽祭で、フルトヴェングラーの指揮で演奏されたベートーヴェンの交響曲第3番の録音の事”

今はもう、そういう時代でもないと思うのだけれども、フルトヴェングラーの録音は音質改善を謳っては、繰り返し再発売され続けている。

中でも、放送局の音源をマスターテープにまで遡ってリマスターされた盤の評判は、押し並べて、評価が高い様で、特にルツェルンの英雄の音質改善は劇的との噂だ。

個人的には、英雄にも、フルトヴェングラーにも、余り思い入れはないけど、改めて、今、フルトヴェングラー入門として聴くには、最適な気がしたので、試しに買ってみた(シューマンの交響曲4番との組み合わせも魅力的に感じたので)。

1950年代のライブ録音としては、確かに、とても聴きやすい。

好い音と言うには、抵抗もあるものの、鑑賞に支障はないと思った。

演奏も優れたものなのだろうと思うが、それを実感するには、ベートーヴェンという作曲家、英雄という音楽、そして、フルトヴェングラーという人への共感が、自分にはどうと不足している様な気がして、後ろめたい。

良し悪しは好き嫌いを超えるもの、とはよく言われるし、実際に、その様な感覚に襲われる事は、凡そ道楽の一つでもある人ならば、ままある事だ。

ルツェルンの英雄は、そういう超克の音楽遺産と想像したが、思いの外、壁は高く厚かった。

それは、極論すれば、聴き手の敗北なのだ。

世の中の全ての人が必ず感動する、なんていう万能な音楽が世の中にはないとは知りつつも、フルトヴェングラーのベートーヴェンを理解出来ないという事は、人間として欠陥がある様な気がしてならない。

一方で、一貫して、そういう欠陥を示し続ける自分の本性もまた、素直で宜しいな、とも考えている。

ただけれども、本当の所は、みんなが褒めるものは好かない、という屈折した精神の帰結が、高くて厚い仮想の壁を拵えているに過ぎぬのではあるまいか?

昔、好きだったものに余り感心しなくなったり、拒絶していた筈のものが気のおけないものとなったり、人生は慌ただしいまのだけど、どうも、フルトヴェングラーという人は、私の生活の中では、置場所に困る大人だ。

英雄という交響楽も、どうにも苦手である。

同じ楽想を使ったバレエ音楽『プロメテウスの創造物』は、ベートーヴェンの音楽の中でも特に好きな作品で、手当たり次第に録音は収集する程なのに、英雄の録音は、好きな指揮者のものであっても、購入には躊躇を覚える。

世間では、ベートーヴェンの音楽の中でも、英雄は特に優れたものと目されている一方で、プロメテウスの創造物は、ベートーヴェンの音楽の中では、余り顧みられないものとなっている。

ベートーヴェンという人が、洋楽の歴史に起こした一大事件は、確かに英雄の作曲であって、プロメテウスの創造物の様な作品ばかり書いていたなら、楽聖などと称される事は決してあり得なかった。

どんなに時代の価値観が変容しようとも、人類にとってベートーヴェンの特別性が担保されるのは、第九や英雄の存在であって、プロメテウスの創造物やトリプル・コンチェルトが為ではない。

それが至極正しい見識であるとすら思う。

故に、正しさがのし掛かる。

フルトヴェングラーと言えば、ルツェルンの英雄以上に、バイロイトの第九が有名で、指揮者入場の足跡が録っているかどうかまで、再発盤が出る度に話題に上る程だけれども、やっぱり、聴いていて、白けてしまう自分がいる。

一方で、シューベルトのグレイトなどは、戦時下の乏しい録音で聴いても、とても好いと思ったから、フルトヴェングラーをベートーヴェンと無理くり結び付ける必要もないのかも知れない。

今回も、何も本命は英雄ではなくシューマンの方なのだから、ベートーヴェンは前座、シューマンが真打と思えば済む話だ。

ただ、英雄であるとか第九といった音楽に、心から感動出来る人の精神構造とは、一体どんな感覚であるのか、それを理解出来ない事が、何だか、世の中の大半の事を真正面からは理解できない事である様な気がして、年々、狂おしくなって来る。

そして、時々、フルトヴェングラーのベートーヴェンを聴こうと思う唯一の動機が、その狂おしさである限りは、決して彼等はこちらには振り向くまい。


このまま続けて聴くのは、何だか勿体ない気がしたので、今日は、シューマンを聴くのは止めた。

代わりに、という訳でもないけれども、比較的最近の録音で、トリプル・コンチェルトを聴いている。

とても素晴らしい演奏、録音、そして音楽だ。

ベートーヴェンの最高傑作は、やっぱりトリプル・コンチェルトではあるまいか、と確信を抱きつつ、その思いは密やかに、この音楽を心より愛したい。

フルトヴェングラーには、トリプル・コンチェルトの録音が残されていないそうだ。

なくてよかったな、と思う。

きっと、トリプル・コンチェルトをフルトヴェングラーの采配で聴いたなら、いよいよ、この人の事が苦手になりそうだから。

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