2022年の日本の音楽~okkaaa『Voyage』を聴いて


音楽(に限った事でもないけど)にはジャンルが細かくあって、ジャンル毎に、解説や批評、紹介文のスタイルにも流儀の様なものがあり、使われる用語も、思いの外、独特なものとなっている。

永年、そのジャンルに浸かって(書かれたものにまで目を通して)いないと、文字通り言葉の意味が解らない。

それは、音楽の持つ、ある種の文法の様なものよりも時に難解で、言ってしまえば排他的だ。

okkaaaという若いアーティストの新譜を聴いて、それは一聴して面白い音楽だったのだけれども、それが、どんな位置付けの音楽で、どんな風に聴くのが模範解答なのかな、と気になって検索してみたところ、出てくる言葉が、悉く、私の様な素人には、門前払いと言う感じがあった。

賛辞(らしいもの)を目にすればする程に、お前は何も解っちゃいないだろう、と言われている気がして、疎外感に苛まれる事となる。

そこには、恐らく、悪意なんてものはない。

だからこそ、村八分というのは、いよいよ悲しいものなのだ、という事を、僕らは人生を通じて何度も経験させられてもいるから、今更、驚く事もない。

~昨年末、バイロイトの第九がスウェーデン放送所蔵のテープからSACD化され、大変な話題となった~

例えば、こうした(僕には当たり前な)一文も、「西洋古典音楽の歴史的録音」というニッチな世界に住まう愛好者には、余りにも常識的で、キャッチーでデフォルトで、自明の事なのだけれども、それ故に、恐らく、市井の大半の良心には、意味不明を通り越して、殆ど無意味なものに違いない。

それによって、世紀の名采配家であったフルトヴェングラーによって、大作家ベートーヴェンが書き残した問題作が、ユニークにリプロダクションされたモニュメントは、奥の院という案配となって来る。

そういう意図せぬ(時には意識的に、悪意を持ってなされる)仮想閉鎖空間が、本邦の今様な音楽の世界にも濃厚に漂っている、という事は、正直に言うと、結構にショックであった。

グレン・グールドのゴルトベルクを聴くようなポップな気分で、日本のポップスを聴く事が、何か、不道徳な事であるような気すら起こさせる。

好い音楽だった、なんて素面な感想を言えない様な、お約束というか、しきたり、不文律というものがあって、気が滅入る。

そして、止めの一言は、「好きなように自由に聴けばよい」という事にいつだって決まってもいる。

多くの音楽ファンが、ジャンルに縛られざるを得ないのも、音楽そのものの持つ文法の問題というよりは、それについて語られる言葉の語法の問題なのかも知れないな、という情緒すら垂れ籠める。

だからこそ、いっそ開き直って、語法も文法もすっかり放棄して、『VOYAGE』というdo-it-yourselfなアルバムについて、気の向くままに過ってみたくなった。

要するに、手違いで逆さまに展示されたゴーギャンの画を、それとは知らずに観て、感動に打ち震える、なんて阿呆な事を、健気にやっておこうと思うのだ。

市井に自由を与えたら、作家の尊厳なんてものは、真っ先に転覆させられるものだぞ、という事を、律儀にやりたい。

誠実という狂気を発揮するのが、凡夫の性というものだ。

出来るだけ、普通(要するに異端)の言葉で書いて、いよいよ、誰にも届かない、そんな感想文が書けたら、最高だな、と思う。

okkaaa作『Voyage 』
https://www.okkaaa.com/voyage

最新のものは、アートであれ、テクノロジーであれ、どこかノスタルジックなものがある。

それは、こちらが単にそれだけ老いて、自分の人生の中にメモリーを持っているせいかも知れないし、最先端とは常に未熟で未完なものに他ならないから、かも知れない。

勿論、正解は、そのどちらでもありはすまい。

人が答えを過つのは、そもそも、問いが悪いからなのだ。

okkaaaは、未だ20代も前半の、若い男性アーティストで、存在そのものがコンテンポラリーを纏っている。

私とは、伯父と甥(ぎりぎり親子、伯父と甥と言うには微妙に無理がある)くらいの世代の違いがある。

だから、同じ時代を生きてはいるけれども、同じ空気は吸っていない。

或いは、同じ空気は吸っているけど、同じ時代を生きてはいない、と言うべきか。

否、同じ時に同じ空気を吸っているじゃないか。

そんな、同じ様な、同じじゃない様な、距離感を覚える音楽で、兎に角、聴いていて、とても懐かしい感じのするアルバムだった。

既視感がある、なんて訳でもなくって、この作家のルーツがどこにあるか解ったぞ、とか、これは模倣だ、とか、コラージュでしょう、なんて事を言いたい訳でもなく、何時の時代も、どこの文化でも、若い時分にやる事は、キラキラとしていて、無闇に美しいな、と言うのが未だしも近いと思う。

それは、okkaaaを聴こうがベートーヴェンを聴こうが大差がない。

或いは、ゴッホを観ようが、中原中也を読もうが、違いは大きくない。

年齢こそが唯一の様式である、と言ってもよい。

それくらい、ファッションを問わず、古今東西、青年というスタイルは普遍であって、絶対的だ。

才能の有無なんてものは些事だろうという気すらした。

天才が傑作を創造する、言ってしまえば、それくらい当たり前の事もないのだ。

非凡な人が非常なものを編み出す事ほど、平凡な事はない、と言っても構わない。

凡人が凡作を捻出する、それと同じくらいの価値しか、本質的にはないだろう、そんな思いが僕にはある。

才覚というものの面白さは不思議なもので、天才が本当に天才なのは、どうも才能の有無にはあまり関係がない様で、詰まらなく見える天才と面白い天才の差こそが、創造の一大事という観があるのだけれども、そこは触らぬ神には祟りなし、臭いものには蓋をせよ、だ。

だから、okkaaaという人に才覚がある事は、これはもう分かりきった事として、今更、どうでもよくて、自分には面白かったという感慨だけが、一大事の残渣として残されて来る。

ハッキリと言って、私には、これがどんな音楽なのかは解らない。

心底好きかと言えば、この音楽と心中する自信は、僕にはない。

ただ、キラキラと懐かしかった。

懐かしいという感慨が、もしもセピア色をして現れるとしたら、それは改めた方がよいかも知れない。

精々、モノクロームであるべきで、被写体自体は、何時だって鮮やかな総天然色だ。

色褪せた思い出ほど、懐かしさの対極にあるものもない。

それに、作品を味わう上で、一番邪魔くさいものは、批評でも解説でも口コミでもカスタマーレビューでもランキングでもなくて、作者の弁だと、私は思う。

だから、『Voyage』がどんな風に今様で、どんな音楽シーンを彩るものなのかを探るにしても、okkaaaの書いたものだけは、未だ見ていない(ごめんなさい)。

そして、外野の言うことを読んではみたけれども、よく解らなかった。

共感出来ない、とか、出来る、という以前の問題として、分からなかった。

結局、自分で好きに聴くしかない。

それは、本当に面倒くさい、難儀で嫌な事なのだ。

取り敢えず、アルバムを何度か再生してみたのだけれども、とても好いと思う回もあれば、何だか気恥ずかしい回もあり、ムードに流される事もあれば、サウンドに引き摺られる事もあり、様々だった。

ただ、繰り返しに耐える、という一点だけが、確かな事だった。

否、繰り返したから、単に情愛が沸いただけかも分からない。

趣味にそぐう、とか、癖に刺さる、とか、そんな風に言うには、距離がある。

全般的に婉曲で、朧気で、単色で、アンニュイなんだけど、どこかアンニュイではないし、ノスタルジックなんだけどやっぱりそんなにノスタルジックでもなくて、メッセージを投げ掛ける強かさが、囁きという姿を採って現れた、難しい音楽だな、と思った。

居心地の悪い穏やかさ、そんな手応えがある。

鬱屈とした情緒に支配されてはいないけれども、ちょっと出口は見えないかも知れない、藪みたいなサウンド。

僕には、それが眩しかった。

今でも、キラキラとしたものとして聴こえている。

だから、鬱屈としているのは、きっと、聴き手の方なのだろう。

けれども、当事者には、そんな事は思いもよらない。

メタ認知なんてものは、結局、言うほど人間は持ち合わせちゃあいない、それくらいの事は、悟性に目覚めぬとも分かりきっている。

こんな、ややこしい無益な事を、なんとなく、控え目に、仕方がなく、ひたすらに考えさせられる音楽なんて、悪い訳がないでしょう?

そんな素敵なアルバムが『Voyage』だ。

昨今、成人年齢が二十歳から十八才へと引き下げられるそうである。

けれども、これだけ寿命の延びた社会では、成人は三十路からという気がしないでもない。

そして、三十にもなれば、後は、死ぬまで老の中だ。

冗談のようだけれども、本朝の当世は、そんな社会という気がして、そのどうにもしようのない輝きと陰のコントラストが、辛うじて僕らにも、古人の"あわれ"の精神を担保してくれている、そんな時代の今様の片鱗が、okkaaaの音楽には聴こえる気がした。

とても成熟した子供の時代。

そんな時代があったら、最高に美しいんじゃないのかな。

最近の老人はだらしがないから、余計に眩しいのかも知れない。

まぁ、そういう自嘲が許される年齢になったればこそ、色んな音楽が、キラキラと輝いて、無闇に美しく、それを素面でカッケーと思えるのだから、こればかりは未熟な大人の役得には違いない。

尤も、だらしがない大人の音楽も、それはそれで相当に好きである。

ただ、間違いのないものには、余り関心がなくなった、というだけだ。

 
『Voyage』を聴いていたら、何となく、マックス・レーガーの音楽が聴きたくなった。

昔は、全く嫌いな音楽だったけど、最近は嫌じゃない。

結構、意識的に買い求めている作家の一人。

この人の音楽は、素人にはとても手に終えない、何だか訳の解らないところがあって、聴いていて、必ずしも気分が好い訳でもない。

出そうで出ない、もどかしさもある。

けれども、どこか突き抜けて、ぶち破ってもいる。

そんな変な感じが、どうにも気になって、たまに聴きたくなる。

勿論、レーガーの音楽にも、okkaaaの音楽にも、ストレートに魅了される聴き手は沢山あるだろう。

そういう人達の感慨からは、自分は随分と遠くにあって、外の人には違いない。

だからこそ、その距離が救いな事も確かにあって、目を凝らして星座を眺める様には、太陽を眺め得ない様に、思わぬ美点が見出だせる事だってあってもよい。

オリオン座からしてみれば、俺等はそもそも一組の仲間の星じゃないぞ、というものだけれども、それに一々抗議する程の大事でもありはすまい。

それは、見る方の勝手にすればよい、というか、主は、寧ろ観る者の方にある。

星座の美しさを担保するのは、観る者の匙加減という塩梅だ。

そんな風に、レーガーやokkaaaの音楽も聴いている。

錯綜した藪を解く手立てなどないのだから、解かずに惑うのが面白い。

解りきらないから、また聴ける。 

良いかは悪いかなんて、あっては困る。 

作家からしてみれば、やっぱり、こんなにも迷惑な話はないだろうな。

そもそも、面白がられるなんて、それ程、面白くない事もないでしょう?

 ○

『Voyage』には12曲が収められている。

その中から一曲選ぶなら、と考えてみたけれども、何となく不可分で、独立した曲は無い気がした。

それくらい漠然としか聴いていないのだけれども、交響楽と一緒で、よく解らなくても全曲通して聴くのがよい。

少なくとも、一部を取り出して聴いただけで、全編の記憶がフラッシュバックするくらいになるまでは、切り取らずに聴くのが好きだ。

寄木細工の様に不可分で、全体を通じて設計されたアルバムという感じが『Voyage』には強くて、その辺に、DIYの真骨頂もあるのだろう。

強いて、くさせば、突出点がないとも言える。

それでも、ハイライトは確かにあって、4曲目から5曲目に掛けての流は、とっても印象に残っている。

04.思い出して
05.ヒグラシ

ここが、好いなと思える時と、聴くのが辛いなという時とがある。

そして、その辛さこそが、このアルバムの価値を担保する。

聴き流せないから、ストップ・ボタンを押す事もある。

聴くに堪えない。

それは、作品が堪えない場合もあれば、聴き手が堪えない場合もあって、このアルバムの場合は、後者の方の堪えなさだ。

余程、ベートーヴェンの音楽の方が、能天気に聴けるというものだ。

どちらが良いかは、解らない。

ただ、どちらが好きかは、割かし、ハッキリとしている。

そして、人は、必ずしも、良いものが好きな訳でも、好きなものだけが好い訳でもない。


これだけ書けば、もう、誰にも届かないくらいには、自己に潜没し得たと言えるだろうか。

インプットの目的がアウトプットにあるとしたら、深みに足を捕られる暇もなさそうだけれども、インプットの手段としてアウトプットが必要と言うならば、書くことも悪くはい。

僕は、どこまでも深く沈みたい。

それは、どんな音楽を聴いても変わらぬ唯一の願望だから、黙ってしまいたい事も多い。

いつか溺れて死ぬのだろう。

溺死は大変に苦しい死に方だそうだから、それはきっと苦しい事だと思う。

広がる海は、そもそも、音楽の方なのか、自我の方なのかも解りはしない。

そんな不確かさを、わざわざ抉って来る、意地悪で悪趣味な奴がいる。

そういう人の所業もまた、嫌いじゃないんだよな、案外に。

要するに、『Voyage』はそんなアルバムです。

否、全く出鱈目だな。 

名作はよく人を過つ、偏にそれだ。

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