サントラ盤を聴きながら~澁江夏奈『佐々木と宮野』
例えば、観たこともない映画のサウンドトラック盤。
人から薦められて聴くと、決まって困ったことになる。
素晴らしい劇伴音楽は、決して、その音楽自体では完結していないからだ。
映像と紐付かなければ始まらないし、想い出を呼び覚まさなければ届かない。
それが不完全と言うならば、不完全なのだけれども、音楽とは、そもそも完全性をそこまで目指していなのだから、激しく音楽的な音楽、とも言えそうだ。
だから、一大事は、素晴らしいサウンドトラックを見付ける事ではなくって、サウンドトラックを聴けば、あの場面、この場面と忽ち思い出されて、懐かしく、狂おしく、やっぱり好きだな、と心が煌めく映像作品に、出会っておく事の方にこそある。
そうやって、再会した音楽があるならば、出来の良し悪しなんてもんは、野暮じゃあないか。
優れた劇伴作家ほど、音楽を意識させずに劇に伴い、すっかりドラマなんて忘れた頃に、たったワンフレーズ、単純なコードでもって、一瞬にして映像をフラッシュバックさせるものだと思う。
如何に素晴らしくとも、美しかろうと、呼び覚ます力がなければ、それは単なる名曲に過ぎない。
視覚に紐付く音楽を書く事は、独歩した音楽作品を生み出す事にも勝る、とまでは言わないけれども、容易い事でもなさそうだ。
世の中には、誰にも不思議と懐かしい感じのする写真、なんてものがあったりする。
一方で、ただその人にだけ特別な、どうにもしようのなく懐かしい、けれどもありきたりな、古びたアルバムなんてものもある。寧ろ、大半はそんなものだ。
音楽にも、誰にも懐かしいトーンもあれば、特定の記憶に結び付いた個人的な想い出の音色もある。
その懐かしさを、才覚で創り出そうというのだから、作家というのは、普遍的であれ、個人的であれ、狂った生き物じゃああるまいか。
ここ二年程で、サブスクリプションの波が、時代に疎い辺境な暮らし振りの私にまで遂に押し寄せて、随分に、映像作品を観るようになってしまった。
それも、実写は、余りに人間が人間をやっているのが観ていて辛いから、アニメーションをよく観るようになった。
凡て虚構で作り物だから、却って安心できるのかも知れないし、それだけ、純粋に世界観が出しやすい表現形態なのだろうとも思う。
これは好きだな、と思って繰り返し観るような作品も、幾つか出来た。
中には、主題歌が気に入った作品もある。
だけれども、サウンドトラックまで買って聴きたいな、とおもった作品は、ほんの僅かだ。
その内の一つが『佐々木と宮野』。
この音楽は、作品を観ている時から、好いなと思っていた。
映像と合っている、というか、ある種、映像が音楽に頼っている事がある。
そこには、何か特別なものがある訳でもない。
寧ろ、既に何処かにあったもの、あった様な気のするもの達だ。
僕らが持っている想い出の方に紐付いてドラマを進める、そんな新奇さのない音楽。
けれども、どの音を取っても、思い出されるのは作品の世界で、あの場面、この場面、或いは、実際にはなかったけど、あった様な気のする景色だ。
必ずしも、音が当てられた場面を想起する訳でもない。
しまいには、映像を観るよりも、サントラ盤を聴く方が、作品の世界が忠実に甦っている気すらする。
想い出は、史実じゃない。
そのデリケートな部分を、音楽の抽象性が包み込む。
悪く言えば、記憶を蝕んでいく。
『佐々木と宮野』の音楽を担当した澁江夏奈という人が、どのくらい卓越した作家であるかは、到底、測れる様なものじゃない気がした。
想い出とは、測ることが出来ないもので、それが、個人的なものなのか、誰にも懐かしいものなのかの区別など、当事者には意味もないからだ。
言ってしまえば、仮に誰かに下らないものだったとしても構わない、という領域で音楽が流れている。
そして、その音楽も、やがては想い出の中で転調して、緩やかに原型を失っていく。
意識が音には向かっていない時に、不意に心を奪われる。
隙を突いて、すうっと忍び込んで来て、記憶を呼び覚ます。
サウンドトラックの最高峰は、忍びの技であると思う。
それを、意図的に聴くのは、ちょっと、本旨と離れている気もするし、聴体験としては、やっぱり、気の抜けた炭酸みたいなものがある。
或いは、少し色褪せた写真。
絵付けのかすれた雑器。
用の美とか、不完全性の美、わびさび。
案外に、劇伴というのは、そんな美しさがあるのかも知れないな。
試されているのは、受け手の人生観の方なのだ。
キラッキラとしたボーイズ・ライフ・アニメのサントラ盤を聴きながら、そんな事をふと思う。
それが、萌えなのか、腐界なのかは解らないけれども、想い出に結び付き、大和魂すら呼び覚ます沼には違いない。
このサントラ盤には、オープニング・ソング、エンディング・ソングも、収録されていて、どちらも素敵な音楽で、聴けば、映像が甦る。
それは、象徴的な存在として、時に独歩し、画を圧し、対峙する。
写真や雑器は、寧ろ、そういう象徴がモノとして現れたに過ぎないかも知れない。
劇伴は、傷んだアルバムの保護シート、空っぽのまま取っておかれた化粧箱みたいなものか。
そんなものまで愛しい、それが、想い出というものの厄介さで、そんなものにまで意匠が宿るのが、つくるという事、あるという事の、空しさとも映る。
粗雑なモノを、敢えて、立派な箱に収める、という事はままある。
しかし、それほど、詰まらない事はない。
絵画には相応の額縁が必要だ。
そう考えると、大和魂なんてやっぱりまやかしで、サントラ盤を聴くというのは、ホールのケーキを好き勝手に切り分けて喰らう様なもの。
とっても身になる行為だな。
それで、旨かったのなら、もう十分じゃないか。
と言うに尽きるのが、澁江夏奈という人の音楽の魅力です。
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