舞台:郷古廉の無伴奏

2020年12月16日 トッパンホール

初めて郷古廉を聴いた時、何て崇高なヴァイオリンなんだろうと思った。

あの時はベルクのヴァイオリン協奏曲を、半ばハイドンの前座として聴いて全くの不意打ちにあったのだけれども、今回は無伴奏作品が四題、ビーバー、イザイ、バッハ、バルトークと、聴き手としても大変に重いリサイタル。

5年ふりに再会して、やっぱり崇高さを身に纏ったヴァイオリンだと思った。

どこか、聴衆を突き放す様な、近寄り難さがあって、ただただ作品の真髄に触れようと願っている、禁欲的な音楽。

終始、極限の緊張状態にあって、それはアンコールが終わるまで、少しも緩むことがない。

強靭な鋼、精神性の塊。

だからこそ、ちょっとだけ、郷古廉という人が憐れになった。

実際に崇高なヴァイオリニストであるのだけれども、そうあらねばならぬ、という不自由さも、少し許り沸いて来て、夢中で熱演を追い掛ける事が敵わない。

それは、ハイレベルな世界に付いて行けない、聴き手の弱さの問題に過ぎないのだろうから、自分を惨めに感じる方が、本当は正しい反応だった筈なのに、同情という形を取った。

あとからTwitterなどを検索してみても、絶賛の演奏会だったのだから、やっぱり、こちらに落ち度あったのだろうと思う。

ビーバーとバルトークは譜面を立てて演奏し、イザイとバッハは暗譜で弾いていた。

断然、ビーバーのパッサカリアが好くって、バルトークの音楽が一番芸風に合っている様にも聴こえた。

イザイとバッハは、もうどうにも仕様のないくらいに練り込まれている様な気がして、正直、ちょっと息苦しい。

郷古廉という人は、聴衆を突き放す様でいて、やっぱり、聴衆の為に弾く人なのだと思う。

少なくとも聴衆の為にも弾くのだ。

誰も伴わず独り舞台に直立して奏でる音楽は、作品とも聴衆とも真正面から対峙する、極限の緊張状態にあって、真剣勝負。

だから、誰かが敗れねば終われない。

昨晩、僕は負けたのだと思う。

僕は僕なりに、誠実に心を込めて、身を差し出したつもりではあったのだけど、それではとても足りなくて、両耳はすっかり削ぎ落とされ、臓腑まで抉られた。

拒絶されたのだ。

郷古廉は何故にヴァイオリンを弾くのだろう。

どうして僕はヴァイオリンを、洋楽を、音楽なんぞを聴くのだろう。

その答えが分からない、という定石は、命題が悪いからこそ起こるものだけれども、どこか満たされる事のない寂しさが、舞台の上にも下にもあったのは、こちらの思い過ごしばかりでもなさそうだった。

帰り道、独り歩きながら、無性に空を見上げたくなっていた。

満天とはいかないのだけれども、東京の夜空としては申し分ないくらい、多くの星が燃えていた。

寒波が身に染みて襟巻きと手袋をしてこなかった事が、少しだけ悔やまれた。

色々、足りない夜だったのだ。

すっかり若くなくなった時に、郷古廉はどんな音楽を奏でるのだろうか、と思う。

その頃には、こちらは生きてはおるまいという話ではあるのだけれども、きっと、この人の音楽をまるごと受け止められる様な気はしている。

それが好かろうとも悪しかろうとも、迷う何物も、拒む何物も、すっかり消え失せて、イザイやバッハがふわっと立ち上がる予感が強くある。

片意地張ることもなくなっている筈なのだ、お互いに。

昨日の演奏会は、本来はピアノとの二重奏だったのが、昨今の流行り病の為に無伴奏となったという事だった。

郷古廉は、二重奏ではどんなヴァイオリンを奏でる人なのだろう。

僕は、この人のソリストとしての顔しか見たことがない。

きっとアンサンブルでは、幸せな音を出すのだろうな、と思う。

勿論、昨晩だって、誰も不幸せになどなってはいないのだけれども、もっと開かれた音が鳴るに違いない。

それを想像するだけでも、昨晩の無伴奏は、聴けて良かった。

修練を、改めてきちんとしようと思う。


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