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神戸ぶらぶら

三宮から明石へ歩いたあと、電車で三宮にもどってもう一泊。こうして連泊したので重い荷物を持って歩かずに済んだわけです。

で、せっかくですからそのままホテルに荷物を預けて、移動する夕方まで神戸を散策することにしました。

神戸ぶらぶらといえば、普通は繁華街を歩いて店をめぐるものでしょうが、こちらは久足の跡を追って、基本的に寺社・古墳めぐりです。

久足は文政十二年九月十二日、もう少し進むつもりでしたが、日も暮れてきたので、宿屋ではない人を頼んで泊めてもらいます。そこが、住吉あたり。翌十三日、そこから三宮を経て垂水で宿泊するわけです。

というわけで、こちらは久足の逆順になりますが、三宮から住吉あたりまで歩いてゆきました。しかしそうすると記述がややこしいので、ここでは『月波日記』の順にしたがっておきましょう。

やはり住吉神社は外せません。

住吉川といふをわたりて菟原の里にいたる。このさとに住吉神社おはします。則うばら住吉と申て今も四社たゝせ給へり。ところにあはせては大きなる御社にて、いとかうがうしくたふとし。里人もこの所、住吉のもとなりといとほこりかにいへり。里人のしかいふもことわりにて、『神功紀』に見えたるはこのところのことにて、今のすみよしの地には後にうつり奉りたるや。この所のさまよそより見ればいとながくさしいでたる山の尾のさまにて、まことに長峡の国といはでもしるきところのさまなり

『月波日記』文政十二年九月十二日

住吉のもとなり」といういわれから、いまは本住吉神社と称してますね。

本住吉神社

ちなみに、住吉川沿いに谷崎潤一郎旧宅倚松庵(いしょうあん)があり、ついでに見学。中学生らしき生徒がたくさんいましたが、みな神妙な面持ちでのぞいてます。

倚松庵

室内では、いたるところで『細雪』の一節を引き、この部屋はここ、と同定しているので、おおそうか、と感じます。

やはり住吉川沿いの対岸に、灘中高があり、なるほどそういう土地柄なんだな、と実感します。

さて、久足が住吉神社の次に訪れるのは、もとめ塚です。

その(*住吉の)並木の松の中を南に五町ばかりゆけば、東のかたなる田の中にもとめ塚といふ塚ありて、ふるきよのものとしるく、松の木まばらにおひたるいと大きなる塚なり。こは『万葉集』に見えたるをとめ塚をよこなまりたるにて、今もこの塚三つある中のひとつにて、これちぬ男の塚なりとぞ。今ふたつは又ゆくさきにありとなん。このもとめ塚のほとりに御田村というよき村ありて、この塚はこの村の地のうち也。その村の南に雀松原といふ松原も見えたり。

『月波日記』文政十二年九月十二日

これはいま、東求女塚古墳(ひがしもとめづかこふん)と称されるものです。残念ながら土取りで面影はまったくないのですが、その場所は公園として整備されています。

東求女塚古墳跡

神戸近辺では、とにかく『平家物語』と妻争い伝説が言及されますね。

妻争い伝説とは、『万葉集』などに出てくる、菟原処女(うないおとめ)菟原壮子(うないおとこ)血沼壮子(ちぬおとこ)の二人の男性に求婚され、どちらとも決めかねて川に身を投げる、という例の三角関係のプロトタイプです。

で、じっさいはさることながら、東西にみっつ等間隔で古墳があるので、真ん中の菟原処女の古墳を、菟原壮子と血沼壮子の古墳が両側から挟んでいると見て、東から東求女塚古墳処女塚古墳(おとめづかこふん)西求女塚古墳と称しているわけです。

で、久足も「今もこの塚三つある中のひとつにて、これちぬ男の塚なりとぞ。今ふたつは又ゆくさきにありとなん」と、まず血沼壮子の塚と伝わっている東求女塚古墳を訪れたのですね。

ここらでは「又この村の西のかたにかけひをかけたる屋のあるは車屋なりとぞ。山ならぬ所に懸樋のあるはいとめづらし。すべてこのあたりの車屋はかくのごとくなりとぞ。」なんて記述もあり、風俗の記録としても興味深いものです。

こうしてこの日は住吉神社ちかくに宿ります。

 かくてもとの御社(*住吉神社)のほとりにいづ。さて、けふは今すこしゆくべかりしを、このあたりにて日もくれかゝりたればやどらんとするに、このところ宿にはあらねば人やどすことをなりはひとする家なければ、浜田やなにがしといふものゝ家をたのみてやどりぬ。中々にもてなしねもごろなり。雨もやうやくはれゆきて、夕日の空のいとはなやかなるは、あすの天気のよからんことあきらかにしられて、いとうれし。
 十三日。朝とく宿りをいづ。五町ばかりもゆけば道の北のかたにゆづり葉の社といふおはしまして、うしろにゆづり葉の嶽といふ高き山あり。海辺のかたには御影といふさと見えたり。こはよになだかき石のいづる所也。

『月波日記』文政十二年九月十二・十三日

翌朝は、まず山側の弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ)を訪れます。

弓弦羽神社
弓弦羽神社

弓弦羽神社は、落ち着いた住宅街のなかにある立地も相俟って、なんともゆかしい神社でした。

つづけて処女塚古墳を訪れます。

 又三町ばかりゆきて川をわたれば、左のかたなる畑の中にもとめ塚あり。これもきのふの塚におなじさまにて、いますこし大きやかなり。こはうばらをとこの塚也。きのふの塚より十町ばかりもある也けれど、ありどころはおなじ方角なり。こは東明村といふ村のうちに高つかのほとりに東明村といふ村見えたり。よき村にて酒造ごとをなりはひとする家おほく、川原村といふにいたりて又川をわたる。
 このあたりは摩耶山ちかくて、その山はいとちかく見えたり。「のぼれば気色よし」ときけど、いとたかきにおぢてのぼらず。この山は仏母摩耶山切利天上寺といひて、則釈伽如来の母なる摩耶夫人といふをまつりたる寺なりとかや。

『月波日記』文政十二年九月十三日

「左のかたなる畑の中にもとめ塚あり。これもきのふの塚におなじさまにて、いますこし大きやかなり。こはうばらをとこの塚也。きのふの塚より十町ばかりもある也けれど、ありどころはおなじ方角なり」との記述、あれ、ここは処女塚古墳なのに「うばらをとこの塚」としているのはどういうことだろう。伝聞をそのまま記しているのか、久足の判断か、あるいは単なるまちがいか、と混乱してしまいました。

しかし後ほど、西求女塚古墳でも「これ莵原男の塚なり」といっているので、おそらく久足のまちがいでしょう。紀行文完成まで推敲を重ねる久足にしては、珍しいですね。

処女塚古墳

久足は摩耶山(まやさん)が気になりつつも、「いとたかきにおぢてのぼらず」とのこと。いまはケーブルカーがあるようなので、ぜひ登ってみたかったのですが、こちらは時間の関係で登りませんでした(残念)。

 森村といふ村の畑の中に又もとめ塚あり。この塚のある所は大石村といへり。おなじさましたる塚にて、これ莵原男の塚なり。かのあやしやおとめの塚には十町ばかりもへだゝれり。これもあり所はおなじすぢにて、まことに『万葉』の歌に見えたるおもむきによくかなへり。またくみつの塚をならべてつくりたるものに見ゆ。今はそのあひだに木のしげりたる所などあれば、ひとめには見えざれど、昔はたゞに三つながら見えたりけむ。『万葉集』『大和物語』にもそのよし見えて、昔より名にたかき塚の、今のよまでそのまゝにのこりたる、いとめづらし。例の古の跡しのぶひがものゝくせとて長歌ひねりいでたり。

『月波日記』文政十二年九月十三日

さあ、西求女塚古墳です。「今はそのあひだに木のしげりたる所などあれば、ひとめには見えざれど、昔はたゞに三つながら見えたりけむ」とは、そうかも知れませんね。

西求女塚古墳

こういう古伝説に彩られた文学散歩、久足の大好物です。もっとも、考察を加えて、怪しいものは怪しいと断じるのですが、それでも考察の過程も含めて書き記し、怪しいながらもこう伝わっている、という姿勢で記録してくれるのが、たいへんありがたい。

地名のヨミに関しても、現地の呼び方をそのまま記している、と断りますので、まちがい(と思われるものも含めて)そのまま記すという姿勢はいまとなっては、とても貴重なものです。

 味泥村といふをすぎ、岩屋村といふにいたる。この岩屋村の道の左のかたはらに敏馬神社とゑりたる石のしるしあれば、その御社にまうでんとて、そこより南へ三町ばかり入ば、則敏馬神社おはします。いと大社なり。この御社も〔八部郡〕『式』に見えたり。鳥居のまへはやがて海にてけしきよし。兵庫のかたもまぢかく見えて、和田の岬のものよりはなれて海の中にさしいでたるさまおもしろし。みぬめのうらと昔より名だかく聞えたるはこのあたりのことなるべし。

『月波日記』文政十二年九月十三日

敏馬神社(みぬめじんじゃ)の前は、「鳥居のまへはやがて海にてけしきよし」と、海だったのですが、いまは埋め立てで道路となっています。景色よかっただろうなぁ。

敏馬神社

久足とともに旅をしていると、久足が絶景と称しているところが埋め立てられていることがままあり、近代の食糧増産のためには仕方なかったのかもしれませんが、やはり残念です。

また、要するに久足は、小高いところから水辺を望む見晴らしのいい場所が好き、ということでもあります。

 これよりすこしゆけば脇浜といふさとにいたる。こゝまで菟原より一里あまりあり。この村に八幡の御社のおはしますかたはらよりもとの街道にいでゝ、三町ばかりもゆきて又北の方の細道にいりて、北へ北へと心ざす。こは布引の滝見んとて也。

『月波日記』文政十二年九月十三日

さて、つづいて久足が目指すのは、布引の滝です。歌枕ですので、久足にとっては外せないところ。いまは新神戸駅の裏からすぐに登れるんですね。

 筒井・熊内(クモチ)などいふ村をすぎて河原のある所にいたる。こゝまで脇浜より一里もあり。こゝに「滝道」といふ石ぶみのある所より山にのぼる坂路を五町ばかりものぼれば、則布引の滝なり。不動堂のあるかたはらに茶屋のあるに尻うちかけて見るほどのけしきいとよし。
 滝のあるところは屏風をたてたらんやうなるたひらかにたかき岩にて、およそ二十四丈ばかりもあるべく見ゆ。うへのかたより滝は五段にきざまれ、おつるさままことに名のごとく布ひきはえたらんやうにて、その色のしろくきよらかなることたとへむものなし。その水の中につらより二丈あまりもはなれて一すぢおつるもありて、えもいはずおもしろし。あたりの山の松の木立もよに似ぬ所のさまなり。

『月波日記』文政十二年九月十三日
布引の滝(男滝)
布引の滝(男滝)

いや、新幹線駅からすぐに、こんなに見事な滝があるとは。久足の滝の描写も冴えてます。

 すべて滝という滝のあたりは、ものすごきものゝやうに聞たれど、この滝は山もふかゝらず、滝のさまもはげしくすごきかたならねば、見るがためにはほどよくめでたき滝也。さればさばかり大きなる滝ならねど、むかしよりいみじくいひもてはやしつゝ、『古今集』『伊勢物語』『栄花物語』にも見えて、名のたかきこといふもさらなり。やゝ時うつるまで見ゐたれど、この滝の糸にかくべき言の葉はいできがたきを、しひてひとつふたつ。

『月波日記』文政十二年九月十三日

久足もいうように、こんなに見るためにほどよい滝はないですね。ここで五首の短歌を詠んでいます。

 かくてその茶屋のほとりより坂をくだりて滝のもとにゆきてみたるもめづらしけれど、うへより見たるさまにはこよなくおとれり。それよりもとの茶屋のある所にかへりて、こたびは道をかへて西のかたにくだる。この道より海原ちかく見わたされて、滝のみならず見わたしもいとよき山也。

『月波日記』文政十二年九月十三日

久足は滝を上から見ることを推してますね。ちなみにいまも、滝は見えない位置ですが茶屋はありました。

布引の滝(男滝)
布引の滝(男滝)

それから下って女滝を見るのですが、辛口評価です。

 二町ばかり坂をくだりたる所にも又滝ありて、これを女滝といへり。上の滝のおなじ水筋なり。こは二段におつるたきにて、上の滝より巾ひろく見えたれど、さばかりたかゝらず。滝のさまもおとりたるのみならず、見所とこゝをすべき所もなく、からうじて山のそばよりのぞみたるのみなれば、いとあやふし。

『月波日記』文政十二年九月十三日
布引の滝(女滝)
布引の滝(女滝)

この滝についても久足、また考証癖を発揮します。

 もとよりこの布引の滝の二筋あること、ふるくものに見えず。さればこの滝は後に山などのくづれたる時、いできたるものならんか、もしはさばかりの滝ならぬは人のいひもてはやさざりしか。『伊勢物語』に見えたるおもむきを考るに、いみじくもてはやしたるは上の滝のさまと聞えたり。

『月波日記』文政十二年九月十三日

じっさいはどうなんでしょうね。

このあと久足は、生田川に沿って下り、生田神社に赴きます。あとは「三宮から明石へ、その1」に記した行程を経るわけですが、ここから垂水まで行って、その夜も月見をたのしむのか。まったくタフです。

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