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三宮から明石へ、その1

先日、大坂堂島米市場跡をはじめ、その近辺をバリバリ第一線の経済史家に案内していただくという僥倖を得て、生涯の財産となりました。

大坂堂島米市場跡
安藤忠雄作のモニュメント

そのきっかけとなった、久足の記述は、以下のとおり。拙著『大才子 小津久足』(中公選書)の第五章にもとりあげております。

この西横堀のあたりには、一丁ばかりづゝ間をへだて、手に矢立と帳をもち、椽を町中におきてそのうへにのぼり、かなたより大声あげて、何ごとやらん一声さけべば、こなたには山彦のごとくにこたへて、つぎつぎにいひうつしゆくめり。うちぎゝは、から(唐)人のものいふもかくやらん、とまで解しがたく、はた狂人かともあやしまるゝは、堂島といふあたりよりなにがしのところに、米相場の高下てふことを、とみにいひつたふるなりとぞ。かくあまたの人をたておきて、かゝる費をなす、そのつひへ、いくそばくならん、とはかりがたきにも、そのみちのおそろしきおもふべく、家をかたむけ身をはふらかす人のおほきも、ことわりぞかし。たゞこのみちの世のために益あるは、米の価を一国一城にてわたくしにさだめがたきによりて、民のため安きかたあるひとつのみなりとかや。

『桜重日記』天保十四年三月二十九日

この「伝言ゲーム」がおこなわれた場所は、おそらくこのルート、とその行為の意味を含めて同定して案内してくださり、大興奮でした。

ちなみに、大坂堂島米市場、ひいては経済史を知るためには高槻泰郎『大坂堂島米市場』(講談社現代新書)同『近世米市場の形成と展開』(名古屋大学出版会)は必読です。

高槻泰郎『大坂堂島米市場』(講談社現代新書)

さて、せっかく大坂に出ましたので、久足が足跡を残した西の果て、といっても明石なんですが、そこをフィールドワークしてみようと思い立ちました。その日は神戸三宮に泊まりましたので、翌日、三宮から明石まで久足を追ってみようという趣向です。

恥ずかしながら神戸は新神戸駅を通過するぐらいで、まともに降り立ったことがありませんから、いろいろと目新しいです。

それにしても、常に六甲山脈が見えるというのは、気持ちいいですね。京都で借景の妙を実感してますから、目を上げれば六甲の緑が飛び込んでくるのは、心が落ち着きます。これだけで神戸が好きになりました。

さて、久足は文政十二年の『月波日記』の旅で、神戸を訪れます。ときは九月十三日。その明月を明石で見ようと、久足は神戸を出立したのでした。

その日の久足のスタートは本住吉神社あたりからですが、こちらの宿泊地、三宮から跡を追ってみます。

 この山をくだりはつれば生田川のほとりにて村有。この村も熊内村のうちなりとぞ。それよりこの生田川の堤にそひて十町ばかりもゆきて小野といふ村ちかきほとりにて川をわたる。この川は砂ばかりにて水なければ橋もなし。わたりて二町ばかりゆけば生田神社の鳥居のほとりにいづ。
 かくて御社にまうづるに、いと大きなる御社にて、千木・堅魚木のさまもいとかんさびたり。この御社も『書紀』をはじめ、『式』に〔八部郡〕見えたるゆゑよしたふとき御社なれば、いとたふとくおぼゆ。
 宝物といふを神主の家にいひいれてをがむに、ふるきものどもゝ見ゆれど、めとまりたるものも見えず。また箙の梅といふ木の御庭にあるは、梶原源太景季が二度のかけの時かざしたるその梅なりといへど、さばかりの老木とも見えず。神功皇后駒竿竹といふがあるも、ことさらうけがたし。

『月波日記』文政十二年九月十三日
生田神社

生田神社、さすがに立派です。繁華街のど真ん中にあるんですね。

久足は神主に頼んで宝物を見せてもらってます。寺社ではこういう記述が目につきますが、書かれていないけれど、きっといくばくかの謝礼を渡しているんでしょうね。

そうして見た宝物は「ふるきものどもゝ見ゆれど、めとまりたるものも見えず」、箙の梅は「さばかりの老木とも見えず」、神功皇后駒竿竹は「ことさらうけがたし」と、シビアです。

 かくて梅の並木を五町ばかりいでゝ街道にいづ。一の鳥居といふは街道より一町ばかり南にありて、桜の並木は海辺のかたまで三町ばかりもつゞきたり。花のをりいかならんとおもはる。
 この街道に茶屋のあるにいこひてものなどくふ。この茶屋のまへに生田二宮(*三宮)と申もおはします。又このほとりの畑の中に河原太郎高直、同二郎盛直といふ兄弟二人の塚あり。このはらからのことは『平家物語』に見えたり。
 この茶屋をいでゝすこしゆきて、神戸という所にいたる。この町に再度山大竜寺にまうづる道の石のしるしあり。この神戸というは町いとながく八町ばかりあり。

『月波日記』文政十二年九月十三日

つづいて生田二宮に寄ったと書いてますが、ルート的に三宮神社のまちがいでしょうね。「河原太郎高直、同二郎盛直といふ兄弟二人の塚」がちかくの畑のなかにあるといいますが、いまは三宮神社のなかです。

三宮神社
河原霊社
河原兄弟塚?

場所は都市計画で何度か移転したようです。どれが兄弟塚を指すんだろう、とよくわかりませんでした。なんでも震災で壊滅したので再興したとのこと。このあとも度々、新しい石碑などを見るにつけ、大震災のすさまじさを知ることになりました。

久足も「この神戸というは町いとながく八町ばかりあり」と書いてますが、ほんとにアーケード街が長くつづくんですね。それが地方都市によくあるシャッター街ではなく、きちんと栄えているのですから、さすが神戸です。

 この町をはなるれば湊川にいとちかし。その湊川ちかき所に石のしるしのある所より北のかたにゆきて鳥居を入て、楠正成主の御墓にまうづ。御前に灯籠おほし。堂ありてその中に御墓はあり。そもそもこの御墓はそのむかしは杉と梅とおひたるいとちひさき塚なりしを、水戸黄門光圀卿の「嗚呼忠臣楠子墓」と表にゑりて、うちにはそのゆゑよししるされたる碑をたて給ふこと、よの人のよくしる所也。げにも大きなる石碑也。その堂の外に二十間あまりもひろく垣をゆひて、いといかめしき墓づくり也。このみはかには、はやくよりまうでまほしくおもひ居たれば、年頃のほいかなひていとたふとし。
 さて、湊川のさまなどを見るに、実に古戦場のさまにて、そのたゝかひのさま、今もめに見るがごとき所のさまになん。この正成主の御事につきてはしのびいでらるゝことゞもいとおほけれど、この君の忠心なること、たれかはしらざらん。

『月波日記』文政十二年九月十三日

久足は後年、天保十一年の『陸奥日記』の旅で、水戸光圀を慕ってゆかりの古跡をめぐるのですが、それはこんな若いころからうかがえるのですね。

湊川神社
「嗚呼忠臣楠子之墓」

 この御墓より二町ばかり北にゆきて坂本村といふ村のうちなる広巌寺といふにまうづ。この寺に楠正成主の像、又はおなじぬしのもちたまへる軍配扇などをはじめ、くさぐさの宝物ども有。光圀卿のかの碑をたて給ふ時、この寺の住持におくり給へる御消息などもあり。もとよりこの寺はかの御墓をあづかりたる寺也。この寺の庭に梅の木あるは、かのみはかのうへにありし梅の木のひこばえなりといへり。

『月波日記』文政十二年九月十三日

広巌寺(楠寺)は震災もあり、まったく往事の趣を伝えていませんでした。

それから湊川をわたって兵庫に向かいます。

 この兵庫のうちなる築島寺といふにまうづ。寺のうちには松王小児(コテイ)といふ人のはかありて、ふるく見ゆる五輪の石塔たてり。この所に平相国の島をきづかれしとき、この人を海にしづえたりといふ説あれど、たしかなるものに見えねばいかゞあらん。

『月波日記』文政十二年九月十三日

やはり震災の影響か、築島寺の本堂は新しいのですが、五輪塔はちゃんと残ってました。

もっとも久足は、文献上の証拠を得ないと信用しませんね。しかし、疑わしいとしながらも当時の状況を記してくれるのが、とてもありがたいところ。

築島寺
五輪塔(松王小児入海の石塔)

さて、この兵庫には池洲があったようで、海の魚をそのまま泳がせていたようです。久足は別に興味がなかったのですが、供の男が「行ってみたい」というので、希望を聞いて寄り道します。やさしい主人ですね。

 又この町のうちに池洲といふものあり。こは海の魚どもをいきながらいれおく池なれば、海魚のいきたるを見ることめづらしとて、よの人の見まほしがる所也。されどわれはさばかり見まほしとおもはねど、とものをのこなどは、かねてこのこときゝ居たるにや、「ゆきて見まほし」とへば、いさゝか道をまはりてそこにゆきたるに、このころは海幸なしとてひとつも魚はすまねば、とものをのこはいと口をしがりぬ。

『月波日記』文政十二年九月十三日

残念ながら魚は一匹もいませんでしたが、なんとも微笑ましいエピソードです。

つづいて清盛塚に向かいます。

 かくて平相国の御墓にまうづ。いといかめしき十三重の石塔たてり。このみはかのことを兵庫にてはたゞに「清盛さま」といひて、いとたふときものにすなるは、この所にはうべなることなり。このちかきあたりに「須佐入江跡」「萱御所跡」又は「経政琵琶塚」などゑりたる石ぶみ所々にたてり。むかしの福原の都といひしはこのあたりすべてのことなりけんかし。

『月波日記』文政十二年九月十三日
十三重塔(清盛塚)

この十三重塔、いまは兵庫大仏なるものの横にあります。ぼくが訪れた時間はまだ門が閉まっていたので、遠くから眺めるしかありませんでした。

なんでも、大正十二年に道路拡張工事にともなって11メートルほど動かしたとき、塔を解体して地下も調査したそうですが、墳墓とは確認されなかったそうです。

さて、ここからは西国街道を進みます。いまも大通りですね。そして長田神社に参詣します。

 この墓のある所よりいとほそき道を三十町ばかりゆきて街道(*西国街道)にいづ。そのいでたるところより又西のかたに五町ばかりいりて長田村にいたる。この里に長田神社おはしまして大社也。けふはお祭なりとて、里人どもはおほくつどひて相撲あり。この御社も広田・生田とおなじゆゑよしおはします御社なれば、例のたふとし。
 この御社より並木の松原を鳥居のほとりにいづ。これおもてのかたの道也。その鳥居のある所は長居村といひて街道也。このちかきあたりにも『平家物語』に見えたる平知章卿、又監物太郎頼賢といふ人の墓どもあり。

『月波日記』文政十二年九月十三日
長田神社

門前の商店街も、庶民的でいいですね。

平知章卿、又監物太郎頼賢といふ人の墓ども」もありましたが、昔の場所ではないのかもしれませんね。

監物太郎の碑
平知章卿の碑(源平勇士の墓)

ここから西国街道をひたすら歩いて、須磨に向かいます。基本的にバイパス脇の歩道を歩いてますので、歩きやすいものの風情はありません。

そうして須磨に到着。まず松風村雨堂へ。

 かくて蓮の池といふを右のかたに見、聖霊権現という鳥居のまへをすぎ、やゝゆきて東須磨の里にいたる。この所まで兵庫よりたゞには一里なれど、これも道をよりたれば今すこしとほかるべし。
 東須磨をはなれてすこしゆけば西須磨の里なり。この入口に松風村雨堂とて、杉の一木あるもとにさゝやかなる堂あり。こは松風村雨てふ女ありて、在原行平卿のこの浦にさすらへの時、行平卿とかりのちぎりをむすびたるよし、うたひものにあるより、つくりたるものと見ゆ。こはいとうきたることなるを、たれてふをこのものがまことゝしてつくりけむ、いとかたはらいたしや。
  むらさめのそのぬれ衣よゝかけて猶ふきほさぬうらの松風

『月波日記』文政十二年九月十三日
松風村雨堂

「うたひものにあるより、つくりたるものと見ゆ」と、謡曲にもとづいた根拠のないものと批判しながらも、それでもちゃんと自分の目で見て確認するんですね。由来があやふやなのは来る前からわかっているのに、わざわざこうしてやってくるところ、その実証的な姿勢もさることながら、一方で伝承は伝承として(文句を付けるのも含めて)たのしんでいる気もします。

 この西すまの里に綱敷天神の御社といふもおはします。
 さてこの東須磨西須磨も家の軒に簾をかけたる家おほし。このすだれをかけたる家どもは、この村のうちにてもふるくゆゑよしある家なりといへば、むかし都をうつされし時の名ごりのゝこりたるものと見ゆ。このすだれはたとへ富たる家にても、むかしのゆゑよしなくてはかくることをゆるさぬがところのさだめなりとかや。いとみやびたることゞもなり。

『月波日記』文政十二年九月十三日

この記述だと、綱敷天神には行ってないかもしれませんが、いちおう寄ってみました。

綱敷天満宮

「東須磨も西須磨も家の軒に簾をかけたる家おほし」というので、須磨寺への門前町を歩くとき、注意して見てみたのですが、気づきませんでした。いまもあったらうれしいのですが。

さて、須磨寺に参ります。

 かくて須磨寺にまうづ。門のうへに敦盛卿の馬の盥といふものあれど、さいふべく大きなるたらひにあらず、いとうけがたし。本堂にまうでゝ宝物どもを開帳させたるに、くさぐさあれどめにとまるものもなく、その中に敦盛卿のもち給へりといふ青葉の笛といふあり。まことにそのふえなるかはかりがたけれど、さすがあはれにおぼえて、
  ねをぞなく若木のさくらちりたりと青葉の笛に跡をしのびて
  うつろひしわか木の桜しのぶれば袖に渡もちりかゝりけり
 住僧の大声あげてむべむべしく縁起ときゝかせたるもいとをかし。この寺はいさゝかこだかき所にて、こゝよりたゞに一谷にいづ。その間に敦盛卿の首塚といふ有。又一谷に白砂・赤砂ありて、こは源平の戦のなごりなりといへるもかたはらいたし。この一谷のうへのかたにむかしの内裏跡といふ所ありて、老たる松の木どもの今は所えがほにおひしげりたるもいとものあはれなる所のさまなれば、むかしをしのびてよめるながうた。

『月波日記』文政十二年九月十三日

須磨寺は、時期もよかったのでしょうが、背後の山の緑がじつにうつくしい。

須磨寺

敦盛首塚も敷地内にあります。

敦盛首塚

そして、久足が見た青葉の笛敦盛卿の馬の盥もちゃんと伝わっていて、いまは宝物館で見ることができます。これはうれしい。

そして一ノ谷。なんだか神社といい谷といい、ナンバリングが好きだな、などと他愛のないことを思ってしまいますが、歩くと、いかに急峻なところか実感できます。

一ノ谷グリーンハイツというところを通ったのですが、たいへんな坂・階段でした。

一ノ谷グリーンハイツ

二谷・三谷といふもおなじさましたる谷也。このあたりにてやうやう海辺にちかくあはぢしまもちかく見えそめて、さすがにむかしより名にたかきうらなりとはいはでもしるく、げにたゞならず優におかしきけしき也。

『月波日記』文政十二年九月十三日

たしかに、淡路島が見えてくるとテンションがあがりますね。

そして、敦盛塚です(ちなみに須磨寺のは首塚)。これは圧巻!

 やゝゆけば敦盛卿の墓といふありて、いともおほきなる石の五輪たてるが、台石はうづもれてふるく見ゆ。
  露きらしすまのうへのゝはかなさをかけてしのぶる袖はぬれけり
 この墓はいとうたてあるはかにて、此前をものゝふの駕籠、あるは馬などにのりてとほれば、かならずたゝりありとなむ。西国しる何がしくれがしなどの船にて沖をかよはるゝ時も、このあたりにてはいとかしこみてかよはるゝとなん。

『月波日記』文政十二年九月十三日
敦盛塚(五輪塔)

写真ではサイズ感が伝わりづらいですが、約4メートルあるんですよ。

敦盛塚(五輪塔)

でかい!

ちなみに久足は「台石はうづもれてふるく見ゆ」と記していますが、昭和60年に開発調査を行ったところ、埋没していた地輪(五輪塔の一番したの四角)の下に、基壇構造があることがわかったため、いまの状態にしたそうです。久足が見たときは、地輪の下半分が埋もれていたわけですね。

ところで、この五輪塔は中世のものとしては全国2位らしいのですが、では1位はどこかというと、石清水八幡宮のものだそうです。

というわけで、石清水八幡宮の五輪塔はこちら。

石清水八幡宮の五輪塔

でかい!!!

高さ約6メートル。実際見たら、笑っちゃいますよ。隣家と比べると、なんとなく大きさが伝わりますでしょうか。

石清水八幡宮の五輪塔

神応寺から杉山谷不動尊への道、そして表参道といい裏参道といい、石清水八幡宮はほんとうに自然がすばらしい。ぜったいオススメです。

閑話休題。須磨にもどりますが、久足はここで蕎麦を食べるのですが、うれしいことに、いまも蕎麦屋があります。

このみはかのまへなる家に蕎麦切てふものあれば、立よりてくふに、名物とよにいふものはすべてうまくはあらぬものなりといへるもしるく、いとうまからず、あぢはひつむかし。

『月波日記』文政十二年九月十三日

久足は「いとうまからず」と渋い評価ですが、いまの敦盛そば(!)は、おいしかったですよ。

敦盛そば
敦盛そば

ちなみに、大田南畝もここを通って、「敦盛そば」「熊谷ぶっかけ」を確認してます。

浜辺に出れば敦盛の石塔あり。台座は地にうづもれてみへず。たゞ梵字のみゑれり。こゝに蕎麦むぎひさぐ家あり。あつもりそば、熊谷ぶつかけなどいへるに興さめたり。

「革令紀行」『大田南畝全集 第八巻』

久足もぼくも腹ごしらえして、明石を目指します。

(つづく)

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