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コロナ禍、日本企業の気概に敬意を!

(2021年2月6日投稿、元のタイトルは「日本の企業たち、その気概のみなもと」)
(1)「自助・共助・公助」って注目されてるよね。前からあった概念みたいだけどね。で、この理念を首相が語ったことで喧々諤々になっているわけだけど、そのデリケート部分には今回突っ込みませんけども、べつに思うところはあって。

(2)素朴な疑問なんだけど、企業が従業員を助けるのは、この3つのうちどれなの。自助、ではないか。でも、企業というものを大きな一つの塊と考えれば、自助になるのかなあ。

(3)なんでそんなことを疑問に思うのかっていうと、いまこんな状況の日本で、失業率上昇を食い止めている一番の防波堤ってなんだろう?って考えたときに、もちろん助成金とかもあるけど、第一には経営者あるいは経営陣の気概だと思うんだよね。雇用を維持するために借入金を増やすのはザラにあることだけど、その借入金には個人として連帯保証のハンコをつく必要があるんだよね。

(4)で、その気概ってものを当たり前に思っている世の中が日本なんだけど、グローバルには全然そんなことないよね、たぶん。これを書いている自分自身が企業経営者だから、こんなことを言うのは口はばったいんだけどね。ここ1年弱、『日経ビジネス』の連載「敗軍の将、兵を語る」は、コロナ禍でピンチの企業ばっかり出てくるけど、みんながみんな、「雇用をどうしようと考えたときに……」って経営者が語る。決断の方向性はいろいろだけど、絶対に雇用は判断基準のひとつに含まれる。そんな国、多くはないんじゃないかなあ。

(5)大学時代のゼミの先生は、いわゆる日本的経営を研究していた方で、僕個人も日本的経営に愛着がある。ヤオコーはお店を休業してまで会社の運動会をやるんだけど、そういうのにあこがれるなあ。コロナ禍は自分のせいじゃないのに、最初に雇用について悩む経営者が、そういうこの国の文化が、僕は好きなんだ。まあ、僕の好き嫌いはどうでもいいんだけどね。とにもかくにも、日本的経営はもはや不必要的なことを言いながら(僕はそう思ってない)、企業に雇用維持を求めるのは論理矛盾だと思うんだよね。そこ分かっているのかなあ。

(6)企業が一団の家族であるならば、災厄が起こったときにどうにかするのは「自助」だよね。企業をひとつの塊であると認識している場合、経営者が「自分たちの身をどうやって守るか」って考えたときの"自分たち"には、従業員も当然に含まれるんだ。

(7)でも企業を一団の塊と認識しない社会では、その経営者の努力は自助ではない。公助ではもちろんないし、じゃあ、共助?それもちょっと違うよね。うーん、あえて表現すれば、ボランタリー精神ってことになるのかなあ。

(8)ちなみに、本筋からずれるけど、今の日本は、企業が所得税・住民税の納入も社会保険の納入も代行するし(これらの課税対象者は従業者です)、軽減税率の複雑な計算やレジ設定も企業にやらせるし(消費税の課税対象者は消費者です)、いろんな事務代行を無料でやらせるんだけど、これって「自助・共助・公助」のどれにも入らないよね。やっぱり、あえて表現すれば、ボランタリー精神ってことになるかな。じゃあ感謝してもらえなきゃ、嫌いになっちゃうよ~(誰を?)。まあ、僕の好き嫌いはどうでもいいか。

(9)話を戻すと、コロナ禍で明確に観察することのできる経営者の雇用維持への気概は、「自助」の意識なんだと思う。そして、従業員も含めて自助だと考える風土は、まさに日本的経営の美点なんだよね。ぜひとも、それを見直す契機にしてほしいんだ。それは不必要とか終わったとか、簡単に言わないでほしいんだ。そして、コロナ禍においても、解雇を、最後の最後の最後の手段と考えているすべての経営者に、心から敬意を。ちなみに、日本的経営は終わったと思っている方々には、とりあえず、統計において、日本の平均勤続年数は70年代からこのかた漸増していることを指摘しておきたいと思います。

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