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オオカミ少年の入れ子構造

マトリョーシカのような、小さいものが似た形の大きいものに入っている構造を、入れ子構造と言います。

いま、政府や東京都のずさんなコロナ対応によって、日本は「オオカミ少年の入れ子構造」になっています。

緊急事態宣言を発令しても、人流があまり減らない事態となっていますが、「この2週間が勝負!」的なことを、昨年3月からずっっと言っているので、慣れてしまったのですね。
オオカミが来るぞ!と言っても誰も耳を貸さない、まさに寓話のオオカミ少年状態です。

それもそのはずで、新型コロナの致死率は高齢者では高いですが、それ以外の年代ではインフルエンザと同程度かそれより低い。それは完全に明らかなのに、「オオカミが来るぞ!」と言われても……となる。
(個人的には、昨年来、不要不急の外出を止めたことはないですけど。)

もちろん、「高齢者のために、人流を止めよう」という倫理的な考え方もあるとは思います。しかし、一方で、知らない高齢者のためにずっと我慢できるほど、私たちは聖人君主ではないのです。
なんとなれば、コロナ禍で財政がひっ迫するなか、「コロナ対応やコロナ後の経済活性化で財政が大変なのであれば、年金を一時的に減らしても構わないよ」と言う高齢者がいれば、私たちの方も「そこまでおっしゃるなら、新型コロナを止めることを第一に考えましょう」となるけれど。残念ながら、そういう高齢者に会ったことがありません。

これはお年寄りに冷酷なのではなく、ただ単に、負担は全員でイーブンに分かち合うべきだと言っているだけです。
でも、どうも高齢者はそう考えていないようなので、若い世代が高齢者の健康のために我慢したり、まして経済苦に陥ったりする必要はないと思います。
ベネフィットを受ける者自身がまず負担する。それが難しいときに、公助や共助が発動する。これが社会を作る基本ルールです。

で、そういう状況なのに、警告を軽々しく何度も発していれば、その効果が薄れていくのは当然の帰結です。

そういうオオカミ少年的状況にあるわけですが、今回の新型コロナが終息したとしても、問題は続いています。

というのも、次に何かしらの新しい感染症が来たときに、感染症そのものに慣れてしまっている可能性があります。
新しい感染症が来たらしいけど、この前は「世界的パンデミック!」って騒いでいたけどあんなもんだったよね、となってしまう。

つまり、新型コロナというスパンの箱のなかでは、「緊急事態だ」とたてつづけに言っていることで、「緊急事態」に慣れてしまっているわけです。しかし、より中期的なスパンのなかでは、「新しい感染症」に慣れてしまって、「新しい感染症が来た」となったときに反応が鈍感になる効果も生んでいるのではないでしょうか

これが「オオカミ少年の入れ子構造」というわけです。

したがって、感染症への対応は、その感染症への危険度に比例させておかないといけません。そうでないと、人々が政治家の激しい言葉に慣れてしまいます。事実、多くの人がその言葉を空虚だと感じ、人流は減っていません。

昨年は日本全体で死者数が例年より大幅に減りました。その一点を取っても、今回の新型コロナ対応は、明らかに過剰反応です

医師会がどうとか、オリンピックがどうとか、色々な政治的な思惑で対応がブレブレになっていくと、次の感染症のとき、そしてそっちが本当に危険なウィルスだったとして、国民はだれも言うことをきかなくなっている。
そういうリスクはないでしょうか?

繰り返しになりますが、感染症に対してどの程度の強い政策を取るのか。それは危険度に比例させる必要があります。でないと、オオカミ少年状態に陥ります。
その観点からも、政府や東京都の対応は明らかに誤っていると言えるでしょう。

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