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「神の十全性」に対極は存在し得ない


十全(じゅうぜん) とは?

[名・形動]
1 少しも欠けたところがないこと。十分に整っていて、危なげのないこと。また、そのさま。万全。「—を期して念を入れる」「—な(の)備え」

2 概念または判断が、その表す対象と完全に相応すること。

デジタル大辞泉

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著P347~P351 第16章 「最後の戸口」の途中一部切り抜き

Q:初心者には、あるいは比較的進んだ献身者にも、今の説明は非常に高度な話に聞こえるでしょう。けれども、今回こうして提示されたということは、やはり重要な意味と関連性があるのでしょうね。

A:真理を耳にすることに、時期が早いということはありません。確信や勇気を持たないうちに、冒険に出るべきではありません。わたしたちは、集められるかぎりの力を結集しなければなりません。臆病者は、覚醒を求めるべきではありません。

意識のレベルを超えていくには、ネガティブ性を拒否し、まずは霊的な領域となる意識レベル200以上(勇気と統合性)を目指し、その先は、持続性と勤勉さを養い、集中力や実践力、実行力を身につけていきます。意識レベル350になると意欲がみなぎり、受容する能力と責任感が強まります。知性や教育、また論理や合理性などのツールは、物質世界をマスターするのに役立ちます。けれども、知性や役に立つツールであるにもかかわらず、同時に障害にもなります。しかし、知的好奇心が旺盛な知性は、より高い真理を知ろうとします。こうして、愛と霊的な価値観が物質的な欲求に取って代わります。当初の愛は条件付きですが、その愛の限界に耐えられなくなり、「無条件の愛」が最終的な目的地となります。このレベルでは、神の臨在である「愛」が人生すべてを変え、霊的なインスピレーションを通して、すでに「自己(※本当の自己)」として内在している「真実」を完全に実現させるために、前進を促します。 

意識の進化がどの過程にあっても、突然「戸口」が目の前に現れることがあります。意識が大きく200を下回っているレベル ― 絶望感や怖れ、あるいはさまざまなレベルの地獄や苦悩の領域 ― にいる人物の前にも、突然開かれることがあるのです。ですから、時期尚早に思われるような情報でも知っておくことが重要です。自我にとって、その「最後の戸口」の説明は、厄介で恐怖に感じることさえあるでしょう。けれどもそのことをよく知っておかないと、戸口の前に突然置かれた何の準備もしていない人は、ふたつの深刻な過ちを犯してしまいます。

まず、真剣なコミットメントによって最後の戸口にたどり着いたとしても、進んで自らの命を神に捧げられるかどうかという段階でつまずくことがあります。この段階で引き返した場合は、きわめて深刻な罪悪感や敗北感に見舞われ、ひどいうつ状態になることもあります。人類の究極の試みに失敗したという思いは、壊滅的なダメージをもたらします。ことのときに、自我はここぞとばかりに舞い戻り、猛烈な報復攻撃を開始します。自我の残党が皆よみがえります。たとえコミットメントが残っているとしても、多くの助けを必要とするでしょう。こうした内的な痛みが超越に向かう原動力になるので、回復することは可能ですが、残念なことに、それには長い時間と大変な労力が必要となるでしょう。

自我の回していたプログラムが明らかになると、そのソフトウェアとテープは消去されるので、自我は崩壊せざるを得ません。それでもなお、ひとつの罠、しかも著名な霊的達人でさえも足下をすくわれるような大きな罠が残ります。それはあの”虚”に見える底なし沼との究極の対峙です。前述の説明で、それは真実ではなく、自我が見せる幻想であることを明確にしました。「神の十全性」に対極は存在し得ないということを覚えておく必要があります。無は真実でも、可能性でさえもありません。それは自我の最後の悪あがきなのです。

このような誤謬(ごびゅう)を人々が受け入れ、信じてしまったことの背景には、ブッダの教えを誤って解釈したということがあります。見性の状態である「虚」の正しい解釈は、「コンテント(内容/中身)がない状態、つまり、内にいかなる形も物も含まない状態」と言えるでしょう。けれども、それは「無」を意味するとして、「十全性」の対極であると誤解されてしまいました。しかし、論理的に考えれば、無は存在することも、別の妥当な選択肢を持つことも不可能なはずです。

「無」対「十全性」という矛盾は、最後に立ちはだかる巨大な立ち位置です。理性を働かせれば、すぐに誤りであることがわかるのですが、ブッダの教えに対する誤解は権威を持ってしまいました。「虚」の無が究極の真実であるならば、そもそも求道者も、発見される「虚」も存在できないはずです。真に虚であるならば、気づかれるものも気づくものも存在しないので、虚ということに気づくことはないでしょう。

「虚」を恐れることはありません。ただ、拒否すればよいのです。「虚」とは、否定の道を進んでいる求道者の前に置かれた罠です。肯定の道を歩む者の前には選択肢として現れませんし、現れるとしても、完全な愛の不在として認識されるでしょう。

「十全性」対「無」は古くからの二元性であり、越えなければならない究極の対の概念です。もし、あなたが否定の道という厳格な道を歩んでいるならば、そうした「虚」の状態に必ず直面することになります。このようなことが起こるのは、愛を誤解しているために、愛を回避しようとするからです。確かに、愛に対して執着を持つならば、それは覚醒の障害となります。しかし、「真実」においては、愛は自由さであり、愛に執着することは制限にほかなりません。

否定の道のもうひとつの誤りは、あらゆる美と完全性、喜びを手放さなければならないという教えにあります。ここでも、それらに対する執着が障害となります。実際にこうした要素は、神の属性なので、神の特性を否定することは、「虚」という選択の到来を早めることになります。

「虚」は、実に圧倒的なインパクトがあります。それは、あらゆるカルマとプログラムを超越しています。この状態は、あたかも無限で終わりがなく、非線形的で恒久的に見えます。それはあまりにも広大で、あらゆる思考を許しません。まさに非線形的な状態であり、すべてのコンテント(内容/中身)が不在です。けれども重要なのは、決定的な何かが抜けていることです。そして、それが「愛」の臨在です。この状態は、まるで”愛をも超越している”ように見せかけるので、否定の道には信憑性があります。

しかし、この「虚」の状態を経験しているとき、もしこの「虚」あるいは非存在が究極の真実であれば、この無を目撃してるのはいったい誰なのかという矛盾に瞬時に気づくはずです。「虚」が究極のものだとすれば、生き残ってそれが本当だったと告げることのできる存在はいないはずです。これを喚起しているのは「自己(※本当の自己)」の慈愛のようですが、それに応えるまでには、果てしなく長く、苦しい道のりがあります。

この「究極の真実」が存在であるか非存在であるかという最後の二元性に、わたしが今生で初めて直面したのは三歳のときでした。この魂は、大昔に霊的な熟練者の道を進んでいたときに、「虚」を選んだことがあるので、それがどのような経験であるかを知っています。「虚」が究極であると信じていたために、肉体が死ぬたびに意識は「虚」の中に没していきましたが、再び受肉していることを発見したときには驚愕しました。本当に「虚」が「究極の真実」だとすれば、意識が帰還することなどあり得ません。認識する者でさえも消し去られてしまうのですから、”虚を認識する者”など存在できないはずです。このように、「虚」は真実ではなく幻想であるために、わたしたちは「虚」の中にとどまることはできません。この誤りを認識した時点で、わたしたちは、これまでに経験したことはすべて忘却の彼方にあるのだということに気づきます。(この「虚」に関する記述は測定値1000です)。

忘却するという自我の資質は歓迎されないものではありません。むしろ多くの人々は、自らの死の体験をすっかり忘れてしまうことを望むでしょう(それ以上苦しまなくてすむと思うからです)。その気持ちは十分共感に値するものですが、意識、気づき、進化の継続に戻るという「真実」を変えることはできません。

繰り返しますが、神の「十全性」、「愛」、「全体性」に対極はありません。あなたが完全に自らの命を明け渡し、神のために死ぬことも厭わないのでないかぎりは、あなたの人生の目的は、覚醒ではなく霊的な浄化にすべきでしょう。


一部を切り抜いてみました、懲りずに真理郎です。上の文章は、真理であるのですが、心(マインド)は真偽を見極めることができないという欠陥があることで、僕ら人類は、真理を共有できていません。できていなから諦めるのではなく、忘却することも、懲りずに繰り返すことで、忘却しにくくなっていくという進化が必要になるのでしょう。

愛は、実体がありませんが、僕らは、愛があるからそもそも存在していて、愛があるから、愛を出せる生命体なのです。忘却してるので、愛の出し方も練習が必要なのだと思います。他人を見て、気づきをもらって、それを自分もやるかどうかは、すべて自分が選択することになります。動機を、愛が基盤の気づいている心の立ち位置でやるのか、やらないのか、どっちなんだい、パワー。を、無理なく無理なく、少しづつでも、やることから、スタートなのだと思っています。

是非、きょんきょんの朗読を、繰り返し懲りずに聴いてみてください。

stand.fm こころの休息♡チャンネル 〈新しい方へ再生〉に設定して、順番にお聴きください。


真理の共通言語 人類生命学 生まれ持った真理のお話 

今回で、149記事目です。149 いちよんきゅーで、意欲だと思いました。赤ちゃんマンバイバイ。


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