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クロスオウヴア 03

■■■ 夜 明 け 3 ■■■

 「じゃあ、さっきとは違った角度で話をしてみよう。こういう命題はどうだろう。赤より少し波長の長い『色』を赤外線という。知っているな。同じように紫より少し波長の短い『色』を紫外線という。どちらも我々人間は『見る』事はできないが、動物の種類によっては赤外線や紫外線を『見る』事ができるものがあるらしい。さあ、その赤外線や紫外線を見ることのできる動物は、赤外線、紫外線をどんな色で見ているだろうか。」

 誰も返事をしない。さすがにこの命題は高校生が即答するには少し難しいようである。

 「まあ、これは期限なしの宿題としておくとして、話を元に戻すと、要するに、最後に言った『脳』の感じ方の問題はさておくとしても、肉体が同じであれば、受け入れる情報も似ていて、水晶体が違えば違う光を受け取っているという先の話と同じで、違う肉体であれば、情報の受け入れ方も違うと言うことだ。光だけではなく、温度や肌に触った感覚、音、味など、すべて肉体が感じたものを脳に伝えるのだから、肉体が違えば脳に伝わる情報も違うだろう。逆に同じ肉体を持っていればたとえば同じ花を見た時に、違う肉体を持った人が見るより、より近い色で見えるだろうと言いたい訳だ。遺伝子が近ければ受け入れる情報も近いので感性も似てくるだろうということが言いたい訳だ。人間とチンパンジーだったら、君たちは人間の気持ちの方が良く分かるだろう。」

 「そういう事が『いいたい訳だ』」

 誰かが、先生の真似をしている。

 「いや、おれは猿の気持ちの方がよくわかるけどなあ。うきうきぃ。」

 市田が立ち上がって猿の真似をしている。どういうわけか、必ずクラスには一人か二人、笑いを取って自分の地位を確認するやつがいる。

 「まあ、ケンは人間より猿の方に遺伝子が近いからな。」

 教室がどっと盛り上がった。市田が猿の真似をしながら、彼を茶化した奴の教科書を奪っていった。

 「おい、かえせよ。」

 「おれ、サルだから人間の言葉はわかんねえよ。うき、うき。」

 「おいっ、早くかえせ。」

 「こら、そこまでにしておけ。」

  一言注意すると先生は続けた。

 「まあ、人間より猿の気持ちの方が良く分かるというやつはいるかも知れないが、人間よりミミズやサナダ虫の気持ちの方が良く分かるってやつはいないだろう。とにかく、遺伝的に近いと言うことはおそらく思考も似ているだろうと言うことだ。」

 「でもさ、先生。その何だったけ、最初に言ったイソジンにミンチに、えっと、その何とかって言うやつのたった四つの並びが変わっただけで、無数の生物の設計図になることができるんですか。」

 「アデニン、チミン、グアニン、シトシンだ。しっかり覚えとけよ。いずれテストには必ず出す。たった四つでも、配列そのものの数が膨大だから、その組み合わせは無限に近いと言ってもいいだろう。」

 「四進法みたいなもんだ。」

 佑右はつぶやいた。

 「ははっ、その通りだ、n進法はコンピュータの基礎だからな。野添はだてに授業中PHCばかりをいじっている訳ではないな。」

 またクラスがわいた。

 「無限に近いっていっても有限なんでしょう。」

 「もちろんそうだ。」

 「どれくらいの数になるんですか。」

 「うーん。」

 先生はちょっと困ったような様子で答えた。

 「そうだな。私の習った古い知識だと、高等生物の染色体には分子量一千万くらいのDNAがおよそ十万個含まれているという。DNAは先に言ったようにアデニン、チミン、グアニン、シトシンの配列でその遺伝情報が決まるというが、その四つ以外にも水素、炭素、酸素、リン酸などから構成されている。アデニン、チミン、グアニン、シトシンだけが遺伝情報に荷担していると過程しても、その組み合わせの数は天文学的な数値になる訳だ。もちろんDNAのすべての部分が遺伝情報を担っているのではないらしいので、実際の所は私にはわからないが、それでも膨大なものだろう。だれか暇なやつは計算してみたらどうだ。」

 先生は即答できない質問にちょっと照れたような、また感心したような複雑な笑みで答えた。

 一九八〇年代末より行われていた研究が、今一つの実を結んだ。DNAの塩基配列が読み取られ、その配列の意味と役割がすべて分かったのだ。簡単に言えば、配列のどの部分をどうすれば「瞳」を大きくできるか、足を長くすることが出来るのかといったことまでが完全に解読されたという事なのだ。だからたとえばリカちゃん人形の様な八頭身美人を作ることも理論上は可能になる。

 以前より、ある病気はDNAの配列のどの部分が原因で起こるのか、こういう体質はDNAの並びにどういう特徴が有るかなどといったことがわかって来てはいたが、今日、ついに人類は自分たちをかたち作っている遺伝子のすべてを理解することができたのだ。

 「ついに人間も完全に裸にされたってわけなのか…」

 佑右はつぶやいた。突然先生が

 「おい野添、」

 と呼びかけた。

「ところでどうして突然DNAの事を聞いたりしたんだ。」

 佑右はPHCのWVDを「単一指向性フロントミドル」から「無指向性 4‐D(dimensional)」に切り替えて、特番を組んで放送されている臨時ニュースをクラス全員に見えるようにした。

 「・・・過去において海外の一部の研究機関では特許という形でその解析情報を占有した経過もありますが、日本チームは、遺伝情報は人類共有の財産との認識から、その解読された内容については、すべてを公開するという方針のようです。また非公式な政府筋によりますと、政府は一次的な遺伝情報については特許を認めない方針であるようです。但しこれで、遺伝子操作によって、顔かたちや性格、知能、運動能力など望み通りの子ども、いわゆる『デザイナー・チャイルド』を作ることが現実に可能になるので、その人間への応用には厳重な基準を設ける様子です。

 解析チームスポークスマンによると、公開は再来月の七月一日よりインターネットホームページ上で行われます。ホームページアドレスはhttp://www.dna.go.jp/・・・」

つづく


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