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クロスオウヴア 02

■■■ 夜 明 け 2 ■■■

(そりゃ、ばれるわな。)

 照れを隠すようにちょっと乱暴に物理の教科書を鞄に放り込むと、こんどは大儀そうに生物の教科書をつまみ出した。なんでも素直に行動できる年齢になるにはまだ時間がかかりそうだ。

 「この教科書の表紙は何色だ、田上。」

 「えっ、青っ、でしょ。」

 突然当たり前の質問をされた生徒は戸惑ったように答えた。

 「うんそうだ、青だな。もう少し正確に言うと、水色と青の中間ぐらいだな、青より少し明るい。」

 その教科書は、表表紙の右半分が白で、左半分から背表紙、裏表紙まで透明な明るい青で印刷されていた。

 「この『青』というものの正体は何かというと、光だ。窓から入ってくる太陽の光、あるいは教室の電灯の光が教科書に当たり、教科書の青いインクがその光の一部を反射して、それが君たちの目に届き、そして刺激された網膜からの信号が脳に届いて、やっと君たちは『青』だと認識する訳だ。ところが今、同じ教科書を見ながら、窓際の席の生徒は太陽の光の反射を見ているが、教室のまん中あたりにいる生徒は、どちらかと言えば電灯の光の方の反射をたくさん受け取っているだろう。光源が違えば見ている色も違うはずだが、君たちはこの部屋にあるたくさんの教科書の色を同じと感じているだろう。また、同じ光源の光の反射を見ているとしても、見る角度によって反射光はちがう。」

 何やら難しい話になっていくようだったが、みんなは無心に話を聞いていた。生物担当の岡田先生は、こういう脱線話が多いのだ。しかし、それらはいつも生徒たちの興味をひく話題ばかりで、今回の脱線も生徒たちは好意と興味を持って迎え入れていた。

 「仮に同じ光源の光の反射を、全く同じ角度から見ている二人の人間がいたとしよう。そうだな、白川と山口あたりがいいかな。」

 名指しされた二人にみんなの視線が一瞬集まる。

 「さあ、まったく同じ光源の光の反射をまったく同じ角度から見ている白川と山口の見た色はまったく同じだろうか。」

 教室がざわつく。

 「富田、おまえはどう思う。」

 「同じ光源で同じ物体からの反射光を同じ角度から見ているとすると、同じ色です。」

 「ふーん。中谷おまえは。」

 「へっ、えーと、違う色だと思います。」

 「それはどうしてだ。」

 「だって、先生の質問の仕方からすると答は『違う色』でしょ。きっと『違う色』なんだろうなと想像がつきますよ。」

 みんな笑いながらうんうんうなずいている。

 「うーん、そりゃ、まいったな。まあ、うん、そういう情緒的な反応はおいておいてだ、科学的に判断して、どう思う。同じ色だと思う人。」

 そういいながら岡田先生は自分の右手を上げて、みんなに挙手を促した。

 「じゃあ、違う色だと思う人。」

 同じように挙手を促す。

 「みんな、正直で宜しい。ま、普通に考えたら『同じ色』に見えるだろうと思うわな。しかし中谷が心理学的に予想したように、答は『違う色』なのだ。『違う色』と断言できる訳ではないが、おそらく違う色に見えるだろう。」

 「それはなぜですか。」

 「白川は眼鏡をかけているだろう。当然眼鏡が完全無色透明と言うことはあり得ない。少し色がついているはずだ。」

 白川は自分の眼鏡をはずして、白いノートの上ですかして見ている。周りの生徒が「ほんとだ、ほんとだ。」「ちょっと茶色いぜ。」などといいながら覗き込んでいる。「眼鏡をはずした白川君もかっこいい。」なんて、茶化しているやつもいる。

 「白川はたまたま人工のレンズをつけている訳だが、光を『見る』以上、どんな人間でもレンズを持たなければ像を結ぶことができない。」

 「水晶体だ。」

 「そう、水晶体だな。動物の眼には水晶体というレンズがある。以前に勉強したはずだ。忘れているやつは復習をしておくこと。えー、だから個体によって持つ水晶体がそれぞれ違う以上、同じものを見ても同じ色ではない。同じ色に見えていないに違いない、と言った方が正確だろう。しかしそれも『・・・に違いない』としか言えない世界なんだ。

 「どうしてですか。」

 「それは、本当に違う色かどうか、みんなが自分以外の別の人間の目を通して物を見たことがない以上、同じ色に見えているか違う色に見えているかは検証のしようがないのだよ。」

 「ふーん。」

 「しかしそこまでは物理や生物の世界の話だ。もっと突っ込んで考えてみようか。心理学的な問題だ。」

 岡田先生は心理学にも詳しい。

 「レンズが違えば目に入ってくる光そのものが違うから、違う色に見えているだろうと物理的な予想はできる。しかし、全く同じ波長の光を、全く同じ条件の元で見ているとしよう。科学の仮想実験で仮定する『理想的な』状況というやつだ。例えば富田と宮本が理想的な条件で同じ物体を見ているとする。すなわち全く同じ波長の光を、同じ角度で、同じレンズを通して見、その情報は網膜を越え、脳まで全く同じに伝わったとする。それでも富田の見ている生物の教科書は宮本の見ている生物の教科書と全く違う色かも知れない。富田の青は宮本の赤かもしれないんだよ。」

 「えー、それはないでしょう。」

 「そこまで違って見えることはないだろう。」

 あちこちで反論の声が聞こえる。

 「お前は教科書は何色に見える。」

 「おれは、黒かな。」

 「おれはピンクに見えるぜ。けけ。」

 「はいはい、ざわつかないで。こっち見る。」

 先生はペンで机をとんとんとたたいて言った。

 「いいか。網膜に写った像は神経を伝って脳に到達する。脳はそのデータを君たちの頭の中に色として表現する。脳が表現するんだ。この時に君たちの脳が、見たものをどんな色で君たちに表現しているのかは、その脳を持っている本人にしか分からないのじゃないか。ある色を見て、小さい時からそれを『青』だと教えられ続けているから、その色を『青』だと思っているだけで、もしも他人の脳の中を覗いてみることができたとしたら、人によって全然違った色を見ているのかも知れない。脳がある波長をどんな色に再現しているか、自分の脳についてしかわからない。私達は他の誰かの脳で物を見たことはない。だからある人間がこの教科書を見てどんな色に感じているかは分からないんだよ」

 うんうんとうなずく生徒とまだ分かっていないような生徒がちょうど半々である。その様子を見て岡田先生は顔半分だけ笑うと、話を続けた。

つづく

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