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「名言との対話」1月3日。砂子義一「ドライバーによって車の性能が変わる」

砂子義一(すなこ よしかず、1932年9月23日 - 2020年1月3日)は、レーシングライダーレーシングドライバー

台湾高雄で出生。神戸や大阪で育つ。ヤマハ発動機の工員時代にバイクのスピード競争で勝ち、それがヤマハレーシングチーム監督の耳に入り、プロのライダーとして誘われる。レーシングライダーは2輪バイクのレーサーで、生身で活動するのでケガが多い。1951年の「富士登山レース」250ccクラスで初出場し優勝し注目を集めた。ヤマハワークスライダーとして世界GPレースなどで活躍する。

引き抜かれてプリンス自動車のワークスドライバーとなる。自動車レースのドライバーに転身し、4輪レーシングドライバーとなり、プリンス自動車のエースにのしあがる。プリンスが日産自動車と合併した後は、歴代のレーシングカーで勝利を積み重ねた。日産ワークスドライバーとして活躍した。

ひとつしかない命を賭けるレーシングドライバーは、世界の頂点を極めればモナコに豪邸が立つといわれる。自分のヘルメットカラーと同色のプライベートジェットでパリでもマイアミでもコート・ダジュールでも巡ることができるという職業だ。

砂子義一は「レースで勝って、(賞金で)外国行って、お姉ちゃんと遊ぶ。コレ、若さの秘訣!」とジョークで周囲を笑わせていた。

晩年の映像をみると、皮の黒の上下を着こみ、トレードマークの大きなロシア帽に白ふちのサングラス姿が多い。ロシア帽をかぶった華やかな石原裕次郎が、寅さんのようなべらんめえ調で啖呵を切っているようだとの評価もある。豪放磊落で女好きなことは誰もが知っているようだ。かくしゃくとしてユーモアあふれる語り口で、2輪車時代のライバルで、4輪車時代の仲間とのトークは笑いにあふれていた。

87歳で亡くなる。2020年の日産本社ギャラリーの追悼展では、1966年代3回日本グランプリの車、1964年第2回日本グランプリスカイラインGT(S54A-1型)、1964年日本グランプリで使ったプリンスグロリアスーパー6などが展示された。

「智彦がレーサーになろうとして、オーディションに受かったって、電話をくれたときに、俺がやってきたことをダメだとはいえなかったね」。息子の砂子智彦も有名なレーシングドライバーになっている。

最晩年のイベントで、スカイラインが「ドライバーによって車の性能が変わる」とオーストラリア人から言われたと喜んでいた。それほどのテクニシャンだった。

スピードに命をかける男たちの職業がレーシングドライバーだ。日本のモータースポーツ黎明期に、トップレーサーとして国内外で暴れまわった。その日本の黎明期の牽引者がレジェンド・砂子義一である。

「ドライバーによって車の性能が変わる」 という名言は深い。性能は決まっているが、それを生かすのはドライバーだという意味だが、大事なのは「運用」であると言っているように私は感じる。規則は運用しだいでよくも悪くもなる。また組織内の仕事にしても、業務分掌は一定でも、担当した人によって、テリトリーは伸びた縮んだりする。実際は人しだいなのだ。砂子義一はテクニックと言ったが、これを私は「運用」という言葉に置き換えたい。

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